5月31日
靖国神社
『靖国神社は、明治2年(1869)に明治天皇の思し召しによって、戊辰戦争(徳川幕府が倒れ、明治の新時代に生まれ変わる時に起った内戦)で斃れた人達を祀るために創建された。
初め、東京招魂社と呼ばれたが、明治12年間靖国神社と改称されて今日に至っている。
後に嘉永6年(1853)アメリカの海将ペリーが軍艦4隻を引き連れ、浦賀に来航した時からの、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀り、明治10年の西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために、斃れた人達を祀ることになった神社である。』
靖国神社御祭神戦役・事変別柱数
これは、インタ―ネットのH.P上の「靖国神社」http://www.yasukuni.or.jp/から抜粋したものである。
明治維新 7751 西南戦争 6971 日清戦争 13619 台湾征討 1130 北清事変 1256 日露戦争 88,429 第一世界大戦 4850 済南事変 185 満州事変 17,175 支那事変 191,218 大東亜戦争 2,133,760 合計 2,466,344
上記招魂社創設の発案者は大村益次郎である(現在銅像が立っている。)木戸孝允と相談し、九段坂上にあった旗本屋敷数軒3万5千坪を得て創設した。戊辰戦争終了後間もない時期、新政府はまだ封建体制が色濃く残っており、越後や東北の山野で屍を曝した官軍諸藩の死者たちの「私死」を「公死」にする必要があった。神仏儒いずれにもよらない超宗教の形式をとった。まだ二百数十藩が存在したこの時代に諸藩の死者を一祠堂にあつめ国家が祈念する形をとった。統一国家はここからはじまるのだということを、示す必要があったのだろう。(益次郎はこの3ヶ月後京都にて刺殺されている。)
蝉丸忌
陰暦5月24日。平安時代、琵琶・和歌の名手であった蝉丸の修忌。大津市の逢坂の蝉丸神社上社、下社、それに同市大谷町の蝉丸神社の三ヶ所に音曲芸道の始祖として祀られた。(今能面を打っている手前、一度は参拝しなくては)
はからずも大津にあそぶ蝉丸忌 桐山道子
5月30日
「塩爺」が美味しい
塩川正十郎。桃屋のコマーシャルに出てくる三木のり平のような風貌で「わすれてしもた」は美味しい。おそらく殿に瑕瑾が及ばないように配慮されたものだろう。誰しもそんな「塩爺」と大久保彦左衛門とをオーバーラップしているではないか。しかし芝居や映画にでてくる彦左衛門と実際とはだいぶ違うようだ。正しくは大久保彦左衛門忠教(ただたか)(1560〜1639)。忠教の先祖は、家康の松平氏の先祖が三河の小勢力だったころに仕え、その後家康にいたるまでの7代にわたり、忠勤をはげむ。忠教は庶腹のため正嫡の長兄忠世の与力として働き、忠世の死後忠隣のもとで働いたが、なぜか家康に忌まれ改易に処されるが、家康は忠教を拾い上げ、自らの旗本にした。高は千石、槍奉行で、足軽一隊の隊長という低い職だった。従って家康に、忠諌を加えたり、侃々と諌めたりといわゆる「ご意見番」など、それはない。では何故。彼の生き様は、将に剛直、篤実、朴訥、忠誠心で彼の一族からはただひとりも裏切り者がでなかった。しかし武士が政治家や役人として出世していく中で、時勢に合わず、存在そのものが喜劇性を帯びていく。そんな滑稽さと悲哀とを人々は好んだのであろう。実際彼の書いた門外不出の「三河物語」が明治13年勝海舟に届けられ「大久保彦左衛門は武夫(ぶさ)サ」といわしめたという。
余談ながら、中曽根某が「私は現在の彦左衛門である」とか、それは観客が納得しないと思うが、いかがかな。
葛飾北斎の後は加山又造がいい
北斎は日本が生んだ天才画家。私は不世出の画家と思う
、が続くのは又造だと思っている。
1927年京都に生まれる。
1984年身延山久遠寺の天井画「墨龍」と16面の襖絵
1997年天竜寺法堂の天井画「雲龍」
文化功労者に顕彰される。
(写真は動物・植物シリーズ「たんぽぽ」)
5月29日
「裏」のうら話し
別に如何わしい話しではない。能面の表はだれでも知っている。しかしその「裏」を見た人は少ない。その実私も「打つ」時に初めて知った。写真のように「表」とは裏腹に愛想もへったくれもない。「表」は仕上げにペーパー(昔はトクサで磨く)をかけ、胡粉(貝殻の粉末を膠で溶く)を10数回塗り重ね、彩色する。しかし「裏」はそのまま上から漆を2〜3回重ねる。大体彫り目は横にする。演者の汗や息の水分ができるだけ横に流れるようにという説だ(一応汗取り綿を当てるが)。「裏」はその切り口、彫り口がもろに表れている。このことはその作り手の技量が表れるということだし、そのメッセージが読み取れる場所でもある。
問題は漆である。2〜3度塗り重ねると簡単にいうが漆は高温多湿でないと乾かない。梅雨時が最高であるがそれに合わせて作れないから、ダンボールの箱に濡らしたタオルを入れて「むろ」にしたり、風呂場に置いたり、米びつ(米のだす温度と水分が良い)にいれたり、それでも夏場は一週間、冬場は一ヶ月かかるときもある。日本で発達した理由がわかる。最新の作品の「小獅子」は乾燥まで3ヶ月かかった。それよりももっと大きな問題が、「かぶれ」だ。演者の中には漆に弱い者もいるから顔が腫れ上がることもあるとか(一度乾くとかぶれるとは思えないが、多分に精神的なのかも)。「肉付き面」というのも案外かぶれてはれあがって取れないか、恥ずかしいから取れなかったのかも、なんてことをゆうたりして。
ゴム手袋など完全防御のいでたちと細心の気使いでやるがそれでもどこかに附く。1週間ほどして、体中が強烈に痒い。中途半端な痒味ではない。夜も寝られない。約1ヶ月続く。痒味が無くなってもその掻破痕が黒々と残る。塗っている期間はトイレに行っても「自分自身」は触らない。へたに触ろうものならパンパンに腫れる。昼夜にかかわらず下半身がむずむずそわそわ、「あのおじさん何か変」と言われそう。でも風呂に入った時は最高に気持ちが良い。
こんな不安と快感を思いつつ次の塗りにむかって彫り進む。
ついでながら、能面は両耳穴をもつて鑑賞すべし、決して鼻のあたりをむんずと掴むべからず。
5月28日
アメリカの水虫のお話・・・ニュ−ヨーク市立大学 辻純子
『足の水虫の医学名はTiner pedisといいその原因であるカビの名前「tiner(白癬)」と真菌の住み着く部位「pedis]の2つのラテン語から成り立っている。しかし、この専門用語を使うのは医者くらいなもので、アメリカ人は一般的に水虫のことをAthlete's foot(アスリーツ・フット)と呼んでいる。その由来は水虫が運動選手に多く見られることからきていると言われている。”スポーツマンの足”―その言葉は日本語の「水虫」よりも聞こえがいいが、かゆみをはじめとする不快な症状に日米間の差があるわけでなく、アメリカでも多くの人がなかなか治らない水虫に頭を悩ませている。
水虫ワンポイント英会話
My foot is itching in between the toes.(足の指の間がかゆいです)
My toes are burning from athlete's foot.(水虫で足の指が痛みます。)
Can you reccommend a good remedy for my athlete's foot?(水虫を治したいのですがなにかい い薬はありますか)』とある。
ところで日本ではいつ頃から水虫があらわれるのだろうか。あまり文献にも出てこないが、やはり多くは洋服化に伴って靴を履くようになってからが圧倒的なのだろう。その洋服化は明治維新(1868年)の翌年七月、政府によって天皇の洋服がつくられた。横浜の洋服商ロートムンド・ウィルマン商会に仕立ての依頼をしたという。これを皮切りに文官(軍人はすでに洋服)すべての洋服化をしようとしたが、なかなかの反発があったらしい。そのため「・・・朕今断然其服制ヲ更メ、其風俗ヲ一新ス・・・」
と明治四年九月勅諭まででた。
古墳などからよく歩遥(スリッパの大きいもの)が出土しているが、日本人の履物の歴史を調べると水虫も見えてくるやも。いずれにしても素足とか、下駄、草履の庶民には縁の無い疾病だったのかもしれない。
良寛の海に降り立つ素足かな 原 裕
雨ふるふるさとははだしであるく 種田山頭火
土・日・祭日は休刊。詳細は掲示板NO、108を参照。
5月25日
正岡子規が言った・・・
子規がカリエスで病床の中、七つ下の松山中学の後輩俳人寒川鼠骨が訪問、其の時の子規の談話を書いた本に「随攷子規居士(ずいこうしきこじ)」がある、それによると。
「人間は最も少ない報酬で最も働くほどエライ人ぞな。一の報酬で十の働きをする人は百の報酬で百の働きをする人よりエライのぞな。人の多寡は人のの尊卑でないことくらい分かっとろがな。人は友を選ばんといかん。「日本」には正しくて学問の出来た人が多い。」と松山方言で言ったそうな。
ということは0.5の報酬で20の働きをしている私は何者ぞな。
「回文」なんてあるんだ・・・・
(消費税)悪い過酷な消費税、是非およし、泣く子がいるわ(わるいかこくなしょおひぜいぜひおよしなくこがいるわ)
(サリン事件)憎い品 嗅ぐと被害がひどく 悲しい国(にくいしな かぐとひがいがひどく かなしいくに)
悲しい世にも友は良し 夜半も共に酔いし仲(かなしいよにもともはよし よはもともによいしなか)
(古典にも)草くきの葉に降る霜に見やるなる闇にもしるう(ふ)庭の菊咲く(くさくきのはにふるしもにみやるなるやみにもしるふにわのきくさく)
全て反対からよんでも「やまもとやま」あれ!やまもとやまて回文ではないよな〜
5月24日
なかなか興味深い展示会の案内記事が・・・
『東洋では古来、画技練磨の一環として古画の模写を重視してきた。中国六朝時代の画家、謝赫(しゃかく)の「画の六法」の最後は「伝模移写」という言葉がある。古典のはらむ気分を模して伝え、それを写し取れということであろう。
そんな模写に焦点を当てた珍しい展覧会が、東京・上野の東京芸術大学美術館で開かれている「よみがえる日本画ー伝統と継承・1000年の知恵」展(6月10日まで)だ。同大学の文化財保存学日本画研究室が企画したもので、千数百年の歴史を持つ日本画という芸術がどのように受け継がれ保存されてきたかを百三十点を超える作品を通して示している。
数ある日本の絵画の中で、繰り返し模写された筆頭は奈良・法隆寺金堂の壁画かも知れない。1949年の火災で焼損したが、会場にはさまざまな時代の「六号壁阿弥陀浄土図」の模写が並んでいる。江戸時代から明治、昭和とそれぞれの画家たちの微妙な表現の違いが伝わってくる。安田靫彦は、古画の研究に特に熱心だった一人で、1908年、24歳で早くも金堂壁画を模写している。同じころ、正倉院の「鳥毛立女屏風」を写した作品が展示されているが、こうした古典の模写を通して画家は、色彩と線描の工夫に大きな影響を受けたという。ほかに横山大観の「観音猿鶴図」(原本、国宝、大徳寺蔵)、菱田春草「一字金輪像」(原本、重文)速見御舟「日蓮上人像(本門寺)」なども並ぶ。また、伝宗達「槙楓図屏風」を尾形光琳が模したものは、八十年ほど後輩の光琳が、いかに宗達を尊敬し熱心に学んだかがうかがわれて興味深い。』
なるほど。その模倣すらでき得ず うち悩みて臥したる をのこを見るも あつかわしくとど思ほゆる。
ハンセン病の控訴断念を思う・・・(緊急)
感染力も非常に弱く、その治療法も確立されているにもかかわらず、法的強制隔離政策をとりつづけた、国に対する賠償請求の勝訴判決に対する国の控訴が断念された。同病の関係周辺の皆様には本当に喜ばしいことである。
そこにはエイズ訴訟のように、一企業と一部官僚、医療従事者の怠慢、傲慢、隠蔽などの特殊性というだけでなく、医療の有り様、社会常識の有り様、人間関係の有り様、政治・行政の有り様など、人間が共同生存していく上での基本的社会問題を多く含んでいるのがハ病問題であろう。具体的にどのような対処がなされていくのか今後も注視したい。
それにしても、与野党政治家等の談話はこぞって歓迎であったが、こんなことも珍しいのではないか。
ならばなぜもっと早くに解決できえなかったのか。頭が変わったからという理由だけではその犠牲はあまりにも大きく、失礼なことではないのか。現在韓国にも同じ問題が存在するが、ここは是非日本の影響を受けて欲しい。 合掌
5月23日
『WWWのすすめ』
私は今アラブにいる。といっても、本当に行っているのではない。WEB上のことである。WWWが世界に張り巡らされた蜘蛛の巣である。ということは私もその糸の先にいるんだ。、と思い今世界中を放浪している。アメリカは勿論、イギリス、ドイツ、フランス、スーダン、ナイロビ、ケニア、ブラジル、ベトナム、オーストラリア、インド、タイ、シリア、エジプト、ヨルダン、韓国、香港、中国、などなど。どのサイトも必ずその国の言葉と英語が選択できるのだが、「とりあえず」英語を選択する。
そこでは、現地のニュースや買い物などホットな情報が得られる、が私はcommentaryとかdiscussionのページから現地の人達のdiscussionを見る。なにせ拙い英語力のため辞書片手に悪戦苦闘だが、その分しばし日本から離れられる。
特に、アラブ圏のサイトは圧巻だ。テーマ別に意見をいれていくのだが、そのテーマも「イスラエル(シオニストと書いてある)について」「テロについて」「何人殺したか」など紛争のない国ではみられないテーマがあり、その内容たるや凄まじい。勿論誰でも投稿できるからその気になればできる。他の国では気軽に書きこめるが、ここだけはうかつにはとても入り込める余地は無い。生まれた時から紛争が日常のそんな人々と、その差は余りにも大きすぎる。が一度訪問するもよし。ヘルメットを忘れずに。
http//www.arabia.com/arabic(アラビア語が出たら、英語のところを選択) ヨルダンでまつ。
5月19日の日本人の姓の読みかたの解答
@オチブルイAクツワダBムサシCイモアライDサカリEデカタ、ハジメFヨイナラGシトリ、ヤマトHカゲユノコウジ
(問題を出しておいて解答するのを忘れていた、お詫びにとてつもない名前を紹介する。
これは一字なのである。雲と龍3個づつ重ねて一字。「実用姓氏字典」にも掲載されている。答えは「タイト」
5月22日
『万葉集から広がる世界』井田邦彦・・新聞の投稿を読んで
「東京・霞ヶ関の弁護士会館の片隅で「万葉集を読もう会」を始めて20年になった。毎月一回の例会には30人近い人たちが集まって話しに花が咲く。会員は弁護士、調停委員、会社員、団体役員、教師、歌人、料理研究家、主婦など多彩である。日本相撲協会前理事長(元横綱佐田の山)の境川尚氏夫妻も時々ふらりと見える。みんなしなやかな心の持ち主である。・・・・」とある。思えば、10数年前、故犬養孝先生(阪大名誉教授)の主催される「万葉の会」に参加して、考古学の会と合わせて文字通り山野を駆け巡っていた。考古学は実証の科学である、そこには人間の臭みが直接見えて来ない。臭みに出会いたく、万葉に接した。月一回の探訪は普段は犬養先生のお弟子さんで武庫川女子大教授の清原先生などが案内されるのだが、足のご不自由だった犬養先生が年一回だけ来られるコースがあった。阿騎野(奈良県宇陀郡松山町付近)である。
阿騎野は「かぎろひ」である。「かぎろひの丘」の歌碑の前であの透き通った、あの独特の付しまわしで「かぎろひ」を詠われていた先生のお声は忘れられない。(写真は歌碑の前で歌われる在りし日の先生)。
毎年12月「かぎろひ」を求め全国からこの「かぎろひの丘」に数千人が集まる。
数年前毎日新聞に半紙の大きさでこれが「かぎろひ」では、という写真が掲載された。紫がかった朱鷺色の空、これが「かぎろひ」なのか。全てが白黒つけられる時代にこれほど朧化されて胸ときめくものはない。
先生のご冥福を祈りつつ「かぎろひ」を詠む。
ひんがしの野にかぎろひの立つ見えてかえり
見すれば月かたぶきぬ 柿本人麻
椅子に座っておられるのが犬養先生
ちなみに左端が「若き日」の小生
5月21日
久し振りに「考古学探訪」に出かけた
陽多く、風少なし。不絶好の「探訪」日よりだ。平坦地11kmの行程。詳細は「三宅を歩く」参照。
5月20日
和辻哲郎「古寺巡礼」より
『一尺五分に一尺七寸5分という小さい画ではあるが、独立に画としてかかれた天平画のうちの一つの遺品として見逃し難いものである。』『体を包む絢爛な衣は、細い緻密な線と、陰影を現す巧みなくま取りとで描かれているが、その衣の薄さや柔らかさに至るまで遺憾無く表現し得たといってよい。特に柔らかい肩のあたりの薄い纏衣(てんい)などはその紗でもあるらしい布地の感じとともに中につつんだ女の肉体の感じをも現している。
束髪のようにきれいに上げた髪の下の丸々としたその顔もまた精神の美を現すよりは肉体の美を現しているというべきであろう。その頬の円さ、口の小ささ、唇の厚さ、相接近した眉の濃さ、そうして媚びのある眼、―誇大して言えば少し感性的にすぎる。細い手や半ば現われたかわいい耳も感性的な魅力を欠かせない。要するにこれは地上の女であって神ではない』
これは薬師寺の吉祥天画を評したものである。今、この吉祥天を展示会に向けて格闘中なのである。
*吉祥天〜バラモン教の美福の女神シュリーで毘沙門天(多聞天)すなわち富神クベェラを夫としている。仏教に摂取せられてすでに金光明経などに現われているから日本でも古くより崇拝されていた。特に天平時代は金光明経が国民全体の福祉のために盛んに用いられ吉祥天の崇拝も盛んであった。飲食、衣服、臥具、医薬及び一切の物質的要求の充足を約束してくれる。
人間は眠らないとどうなるか・・・立花隆「文明の逆説」より
『第二次世界大戦中に、アメリカの軍隊で数百人の兵士が参加して断眠の実験が行われた。二、三日目から全員イライラし始め、錯覚、幻覚が起こり始め、四日目にはほとんどの者が落伍した。19世紀末に、イタリアの機械工が六日六晩機械につきっきりで働いた記録があるが、それによると最後は意識もうろうとなっていたと伝えられている。このへんが断眠の限界であろう。これ以上つづけると発狂、死にいたることは間違いない。』『人体は長期の連続しようには耐えられないのである。』とある。他にもいろいろ調べてみるが、何故睡眠が必要なのかは謎である。一説には、オーバーヒートした「脳」を冷やす時間だという。そう言えば、「脳」は体内で酸素とブドウ糖を一番必要とする臓器らしいから熱に弱い「脳」の冷却が睡眠というのであろうか。そして立花氏曰く『人類の文明史をみると、かならずどの文明も、その進歩の連続性に耐えきれない地点までたどり着くと、深い眠りに落ちこんでいる。・・・・・このあたりで一寝入りしないことには、人類全体に発狂の危険があるところまできているのではないだろうか。』 100%同感。
5月19日
温故知新
「ものすごい地震があって、ひどくゆれた。その揺れ方はなみなみのものではない。山は崩れ、川を埋め、海は傾斜して海水が陸をひたした。土が裂けて水が湧き出し岩石が割れて谷に転げ込む。海辺を漕ぐ舟は津波に翻弄され、道行くものは足元がふらふらする。町の周辺では、あちらこちらでお寺の堂や塔が被害を受け満足に残ったものは一つもない。崩れ落ち、ひっくり返り、塵灰が立ち上って、さかんに吹き上げる煙のようである。大地が動き、家が破壊される音は、雷鳴とまったく同じだ。家の中にいるとすぐにでも押しつぶされそうになる。外に走って出ようとするが地面が亀裂する。羽がないので空を飛ぶわけにはいかない。竜なら雲にも乗れるが、人間のかなしさ、そうもできない。」
「今度の大地震を経験した人は皆この世がつまらないものだなあと話あって、少しは煩悩も薄らいだように思えたが、年月が過ぎると、大地震のこと、世のはかなさを嘆きあったことなどを、口に出す人もいない。」
これは阪神大震災の描写ではない。
鴨長明(1155〜1216)の「方丈記」(1212)の一節の口語訳である。
『おびただしく大地震ふる事侍りき。そのさま、よのつねならず。山はくずれて、河を埋み、海は傾き
て、陸地をひたせり。土裂けて、・・・・竜ならばや雲にも乗らん。』
『人みなあぢきなき事をのべて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。』が原文。
さらに『人のいとなみ、皆愚かなる中に、さしもあやふき京中の家をつくるとて、宝を費やし、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る。』とある。
これは日本人の本当にある姓である。
@十二仏 A七寸五分 B八道 C一口 D十八女 E 一 F四十八願 G倭文 H勘解由小路
上記の読み方の解答を「掲示板」にて挑戦されたし。正解は22日の同コーナーに掲載予定。
5月18日
今泊瀬の谷は
歌人・道浦母都子のエッセイに「女人高野。この美しい名称はいつ生まれたのだろう。初めて室生寺を訪れ、まず思ったのはそのことだった。室生寺の正式名称は真言宗室生寺派大本山室生寺。だが、寺全体が醸し出す雰囲気からは、室生寺と呼ぶより「女人高野」の方が、ずっとふさわしい。そう感じるのは私だけではないはずだ。・・・」と書いている。同感である。
泊瀬(ハツセ)の谷は奈良(国中)と伊勢を結ぶ交通、要衝の谷筋である。伊勢から国中に入るところに三輪山がある。
この三輪山こそ私が最もその尊厳を感じる場所である。その麓には、箸墓あり、黒塚あり、大和発祥の地ではといわれる巻向遺跡、山之辺の道、50m歩けば遺跡に当たるというほど密度が濃い。又泊瀬の谷は三輪王朝の奧津(王家の谷)でもあり泊瀬川に沿って大小無数の古墳が並ぶ。雄略天皇の推泊瀬宮の発掘調査も行われている。かつて寺といのは要衝の役割を兼ねていたので、ここは格好の砦である。そんな中に牡丹の長谷寺と石楠花の室生寺がある。
私は十数年前から牡丹と石楠花に引かれて四月の終りから五月の初め頃毎年両寺に参っていたが、花見は人見である。人に見飽きて今は行かない。余談だが5月1日の「メモ」の牡丹はその身代わりである。石楠花も買ってきたが、あれは難しい、よほど神経がないと平地では生かせない。
台風でやられた国宝五重塔に行き着く石段の両側に石楠花の群生がある。このアングルが確か写真家故土門拳の出世作と聞く。何度か私もやるが、月とすっぽん。
三輪を母体だとすれば室生寺と其の周辺は子宮である。塔から奥が奥の院。鬱蒼と茂った巨大杉の中、胎児に戻り行く感じすらある。
室生寺から少し山手に「菖蒲園」がある。花と抹茶と饅頭のセットでくつろぐのもよい。私は更にその園の裏山から続く「東海自然歩道」を歩く。こんな山奧でしかも延々と石敷きの道があるのは感服である。時にはせせらぎに寄り添い時にはくずれた石畳を飛び歩きながら近鉄室生大野まで下ること3時間。途中大野寺の庭から、川向こうの巨大磨崖仏に合掌して帰途に着く。
『遊行』「高野詠唱」
一山に女人香のなき千年か精進の食を食いつつおもふ
山の上の女人禁制のあとどころ生活あれば理髪店あり畳屋あり 上田三四二
5月17日
竹中教授のみんなの経済学」を読んで
今、竹中平蔵の景色がいい。まず名前がいい。幕末の志士にあってもおかしくない。次に顔、一部では「ヤワラチャン」ににているとか、私はノーコメント。声も又いい、丁丁発止のやりとりが凛として国会に響く。その理路整然とした理論を柔和な趣で説き伏せる光景は、菩提樹の下のブッタやあるいは古代ギリシャのソクラテスやエレサレムのイエスを描いた教科書を思い出す(ちょっと言い過ぎかな)。次にイントネーションがたまらない。こぼれそうでこぼれない、出そうで出ない、和歌山弁。
今は亡き私の祖母は和歌山の出である。彼女は生涯和歌山弁を愛した。私の体内にその音律がしみ込んでいる。その音律に出会うとどんなに装いを変えようとも確実に嗅ぎ分けてしまう。平蔵が阪大の頃から嗅ぎ分けていた。このことは自分で自分の体臭が判らないが人のはよく判るという関係である。彼の国会の答弁であの音律で「財政改革と景気対策は一兎やっしょ」とやれば100%和歌山弁の完成である。和歌山弁の音律で東京弁が乗りかかるそのきわどさは一種の快感でもある。
それはそうと八代将軍吉宗はなに弁だったのかな。「よきにはからってよ」「そんなことゆうたらあかなっしょ」なんて大奥でゆうてらっしょ。あれ ?。
ナニ、経済学。そうそうこの本、「お父さんの経済学」「お母さんの」「おばあちゃんの」「お兄ちゃんの」と分けて書いてくれている。文字通り「みんなの」である。タイトルに偽り無し。一読あれ。
出会いの思想
人間が出会うことは、古代人にとっても偶然ではなくそれは神のおぼしめしと考えた。実際道でばったり友人などにあったりすると不思議な思いをしただろう。こうした道や川の出会うところは、聖地として尊ばれた。
川俣、川又、川股、落合、辻、十文字、相川、合川、相沢、逢沢。などがこれである。
古代人はここで道ゆく人の噂やつぶやきを神のお告げとした。インドでもブェルナー川とナシ−川との合流点をバラナシ−(ベナレス市)といってヒンズー教の最大の聖地としている。そんな「出会い」を冒涜するなんて。
5月16日
「遺伝子改造社会あなたはどうする」 池田清彦(山梨大学教授)・金森修(東大助教授)共著・・を読んで。
「遺伝子改造食物の問題と環境問題は、ものすごく密接に関係している。そのときの環境問題というのは、基本的に人口問題である。環境問題は「人口問題だ」ということは、アメリカの一部の人はいっているが、日本ではあまりいわない。日本で人口問題というと人口を増やすことばかり考えてて、人口が減ったら、国民年金を支える人がいなくなるといっている。
人口は、日本みたいなところは減っていてアメリカでもあまり増えない。インドと中国ばかり増えると、人種的に偏りがあって、自分たちの民族が衰退して、この世界が中国に乗っ取られるみたいな危機感があるが、人口問題についてはあまりいいたくないようだ。しかし本当のところをいえば、環境問題というのは基本的に人口問題にきまっているわけで、自然保全というのはセカンダリーな問題なのだ。」
とある。我意を得たり、4月27日のメモ「我思う断片」参照。変人おじさんの独りごちと思っていたがそれなりに当っているのかも。
卯の花
「卯の花のにおう垣根に・・」と歌われるが匂いは定かでない。
ユキノシタ科で ウツギ(空木)の花のこと。
『正式には「ウツギ」といいます。山野の路傍や伐採あとなど の日当たりのよい所に育つ「ユキノシタ科」の落葉低木で、観賞用として庭木や生垣に使 われているようです。枝が中空なので「空木(ウツギ)」と呼ばれています。ユキノシタ 科なので香りはさほどなく、また美香というものでもありません。花は鐘状で可愛く、葉 は鋸歯になっています。幹の高さ(2m)とギザギザの葉形が丁度垣根にいい感じです。 これと同種類にコウツギという花木がありますが、花はウツギより少し小ぶりです。確 か紀伊半島や四国に多く見られる花です。』 (解説文はHIDESAN提供 )
卯の花に色移しゆく通り風 TORA
(このコーナーはHIDESANとTORAさんのご協力で出来ました。ありがとうございました)