二十六段 壬生を歩く


以前に井原西鶴の「好色一代男」「好色一代女」や新撰組関連の本を読んでいると 「島原の角屋」「角屋の太夫」とよくこの「角屋(すみや)」という揚屋(あげや)が出てくる。揚屋というのは 置屋が芸者や芸妓を置いているが 揚屋は置屋から芸者・芸妓を呼んで宴会をするところ 今でいう料亭である。
この「角屋」が現存し 公開されているというので 出かけた。
場所はJR京都駅から山陰線で一駅の「丹波口」駅前一帯の元花街「島原」にある。
所在地は京都市下京区西新屋敷揚屋町三十二番地となっている。
壬生にも近いということで 新撰組史跡も回ろうと相成った。
頃は梅雨の合間 朝9時の阪急大宮はすでに蒸し暑い。
駅から歩いて10分足らずで 綾小路大宮西入るの「光縁寺」の前に出る。
ビルに取り囲まれた墓のすぐ横を嵐電が走る。


この寺の裏の墓には隊士関係の人々28人が埋葬されているという
当時この寺の門前近くに新撰組の馬小屋があり 毎日隊士たちが門前を往来していた。
その中に副長山南敬介がいた。
この山南がふと寺の山門を見上げると自分の家紋と同じ「丸に右離れ三つ葉立葵」の瓦があるのを目にした
住職と同年ということもあって親しく 出入りするようになり
切腹させられた同士や殺された隊士や関係者をこの寺に運び込むようになったという

当の山南もここに葬られることになる。

綾小路を西に100m坊城角に新撰組屯所の一つ「前川家」がある


旧前川家は八木家と共に、新撰組の屯所の一つだった。建物は今もほとんど当時のまま残っているが、新撰組が屯所とした時の当主だった前川荘司家の系統は絶えている。
この旧前川家には、池田屋事件につながる倒幕運動の志士、古高俊太郎を拷問にかけた部屋等が残っているようだが、非公開。
庭先で隊士の扮装をした若者がクイズをしたりのパフォーマンス。
綾小路坊城を南に行くとまさに「新撰組一色」
文久3年(1863年)浪士13名(芹沢鴨・近藤勇平山五郎・土方歳三・新見錦・平間重助・野口健司・沖田総司・山南敬助・永倉新八・原田左之助・藤堂平助・井上源三郎)が宿所とした 屯所「八木邸」がある。
この八木邸は 後から訪れる「角屋」から泥酔して帰ってきた芹沢鴨が暗殺された屯所でもある。
9時半頃というに 屯所前は人だかり




「写真は同史跡パンフレットより」
八木邸の母屋の座敷 近隣の前川家、南部家なども屯所として使用されたが 八木邸はその中枢であった
一番奥の部屋が芹沢鴨斬殺の部屋

屯所に入るには門前の料金関所があり 隣の老舗の饅頭屋でお茶と饅頭付きで1000円となっている
お茶セットは強制的なので少し憤慨するも邸内のおじさんの説明に感動して聞き入っていたので
ほぼ納得
上の写真の芹沢鴨斬殺の部屋で30人ほどの観光客が車座になって「殺人現場」の検証の説明を受ける
その臨場感はTVの比ではない
文久3年9月18日 雨の夜10時頃 「角屋」でドンチャン騒ぎをして泥酔の芹沢や平山五郎達はそのまま奥座敷で寝入ってしまった
雨が降る闇のなか、黒装束の男たちが八木邸に入ってくる。国事探偵方の御倉伊勢武を先頭に、土方歳三、沖田総司、藤堂平助の4人。まずこの刺客たちは平山五郎を仕留める。座敷に首がころがっていたそうである。次に芹沢の寝所に入り、屏風を倒し、屏風ごと一斉に刀を突き立てる。芹沢とお梅の二人は悲鳴をあげ、芹沢は枕元の刀をつかむも、さすがに抵抗らしきことも出来ずに即死した。その煽りでお梅も斬られ、ほどなく亡くなった。当然平間もその犠牲者になる予定だったが、運良く厠におり、無事。その後、抜き身を下げて「ドコへ行った?」と叫んだが遅かった。既に芹沢、お梅、平山の暗殺作業はすでに終了していた。
 翌日、芹沢たちの検死が新選組によって行われ、犯人は長州藩の仕業と断定された。
 享年38歳、現在墓所は屯所から50mほどにある壬生寺境内墓地にある。
それにしても 昔の人はあんな刃物を振り回して よく人を切ったり切られたり出来たものだと
改めて関心した


写真は壬生寺境内の鴨と平山五郎の墓

 
壬生寺山門
30年ほど前に訪れたときと随分変わっている
境内には老人ホームや幼稚園がある
本道も鉄筋になって様変わりである。これだけのものを維持するにはいたしかたないのかも
ただ少し残念なのは 「壬生狂言」の舞台が幼稚園の後ろに隠されていて その幼稚園の側面が階段状になっている
 たぶん「狂言」の演日はそこの階段で鑑賞するのであろう
年に一度の為にはこれもやむを得ないのであろうか

さていよいよ壬生坊城から南 約1KMの「角屋」をめざす。
途中 炎天下歩行の老体に自販機のジュースで喉をいやし
100円寿司屋で飢えを満たし そうそう当然「黄金の生泡」が五臓六腑に染み渡る。
芹沢ならぬ すこし酔い心地で角屋の前にでる。


ここで「角屋」でもらったパンフレットを転載する
『角屋は島原開設当初から連綿と建物・家督を維持しつづけ、江戸期の宴会・もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として
昭和27年に国の重要文化財に指定されました。
揚屋とは江戸時代の書物の中で、客を「饗するを業とする也」と定義されているところによると 現在の料理屋・料亭にあたるものと考えられます
饗宴のための施設ということから 大屋敷に面した広庭に必ずお茶席を配するとともに 庫裏やと同規模の台所を備えていることを重要な特徴としています。
所蔵美術品では 昭和58年に蕪村筆「紅白梅図屏風」が重要文化財に指定されました。
また平成元年には財団法人角屋保存会が設立され 以来 角屋の重要文化財建造物と美術品等の保存と活用が行われています』
 


角屋の正面玄関


玄関から見た景色


立派な台所と「おくどはん」

実はここの入場料も1000円。(暫し躊躇)
でもでも台所をぬけて一階の主庭のある「松の間」での案内人のおじさんの説明をきいていると
ここでも感動。これだけのものを維持していくにはしゃ〜ないかな。

この「松の間」の床の間を背に40人ほどの隊士たちと宴会後 芹沢は斬殺された。

この臥龍の松の奥には合計3つの茶室が有るとうのもここだけらしい

おじさんの話ではここは当時一見さんは入れないが 新撰組は「会津藩関係」ということで しぶしぶ出入りが許されたらしい
しかし 従業員はいやがってだれも行かない それを又芹沢が怒って 例の鉄扇で周りをたたき壊したという
しかし 「角屋」300数十年の歴史の中で 「新撰組」と関わったのは わずか3年ほどのことであったとか。
なお 「正面玄関」の写真で右上の柱に白い紙が貼ってあるのは「新撰組隊士による刀傷の跡」と書いてある。

角屋から東に50mほど行くと島原入り口の「大門」がある

慶応3年再建とある

そこから少し又西に戻ると置屋(太夫や芸妓を派遣する店)の「輪違屋」がある

この辺に立っているとどこからか 刀が触れ合う音に混じって
笛や太鼓の音が聞こえてきそうである。
京都もまだまだ風情のあるところがありますね
と感動して帰途につく