一九段 秋の京都古刹めぐり           

           
地下鉄東西線「蹴上」を上がると インクラインの線路の下に出る。
こんなことを聞いても何のことかいなと思うのだが 「秋の京都古刹めぐり」は蹴上からスタートした。


                   写真はインクライン
京都市内と山科・大津の間には東山連峰が横たわる。
人と物の流通には都合の悪いものである。
明治2年から始まった琵琶湖疎水工事の一環として 明治20年起工「疎水の水溜まり」を蹴上と下流の南禅寺横の2箇所につくった。
 その高低差36.4m 総延長582mの線路を敷いて台車をケーブルのように上下運行せせる。
その台車に船ごと人や荷物を通過させたのである。
調度 車ごと船に乗って海を渡るフェリーの逆バージョンというやつだ。
 疎水は京都の農業・産業の用水となり インクラインは昭和23年に廃止されるまで市民の足として利用されていた。
今は観光用に整備保存されており 沿線沿いは桜の名所として親しまれている。
しかしこのまま放置しておくのももったいない話だ。
民間に払い下げるか 貸与すれば おそらく 西の「嵯峨トロッコ」「東のインクライン」というキャッチフレーズで新観光名所誕生疑いなしと思うのだが。
出だしから長くなったが 線路をくぐるトンネルをぬけると 南禅寺までは閑静な 住宅と仏閣が並んでいる。
朝9時過ぎというのに 参拝客で道は「熊野詣で」状態。
これが名高い「南禅寺三門」本当に下から見上げても絶景である。
臨済宗の総本山 創建は正応4年(1291年)。
でも今日はここが目的ではない。お隣の「永観堂」である。
「三門」や「湯豆腐」を横目に 野村美術館 東山高校前を通過して 「永観堂 禅林寺」に出る。
創建は平安初期 弘法大師の弟子真詔僧都(797〜873)とある。
鎌倉時代はじめに浄土宗西山禅林寺派総本山となっているが もともとの形態がいまいちはっきりしない。
中門の前で特別拝観料1000円を納金。
寺内に入って大玄関で履物を脱ぎビニール袋をもらって手にぶらさげて 拝観の旅が始まる。
中庭を取り巻いて「鶴寿台」「古方丈」「瑞紫伝」と続き どの部屋も寺宝や絵画(国宝「山越阿弥陀図」のレプリカや
重文「絹本着色十六羅漢増」重文「紙本金地墨画波濤図」東伯筆など)さながら洒落たギャラリーである。
「御影堂」あたりから急勾配になり山の中腹に本堂の「阿弥陀堂」となる。
ここにお目当ての「みかえり阿弥陀如来像」が鎮座する
本堂正面に渾然と輝く金箔厨子に 左向きにみかえっておられるので

拝観者は左脇にかたまって黒山となしている。


はあ〜これが夢と見た「みかえりさん」 もちろん撮影禁止のため パンフレットから拝借。
説明板によると
「みな人を わたさんと思う心こそ
   極楽に ゆくしるべなりけれ」永観(ようかん)律師(千載和歌集)

   ・自分よりおくれる者たちを待つ姿勢
   ・自分自身の位置をかえりみる姿勢
 ・愛や情けをかける姿勢
   写真は「みかえり
   ・思いやり深く 周囲をみつめる姿勢
   と解釈できるようで平安末期の作者不明作とある。
  憂いと 優しさと きびしさをそなえた なんとも言えない表情に
  何時間でもみていたい思いである。
時は紅葉の真っ盛りの休日のみかえりさん特別開帳とあって ひとの波に押されつつ本堂をでる。
 弁天島の浮かぶ放生池の周りには半紅葉をあざ笑うかのように 茶店の席いすの赤い毛氈が鮮やかに映えている。
そのほとりに天竜を臨む「画仙堂」がある。
さて名残惜しく下山となるのだが ふと山手を「みかえる」と中腹にある「多宝塔」とその周辺のモミジが絵葉書のように見送ってくれている。
そうかこれが「モミジの永観堂」なんだ。
 「みかえり」してみるもんだ・・・
                          写真は「みかえり如来」同寺パンフレットより

画仙堂 
参拝客でごったがえす阿弥陀堂                               放生池と赤い毛氈と紅葉と画仙堂 
                           
この半日で十分遊んだのだが「古刹巡り」と銘打っているので
再び地下鉄東西線を利用 西の終点駅「二条」で上がり JR山陰線駅前から「玄沢」行きの市バス30分「源光庵前」で下車。
京都という街は バスを30分乗れば 別天地に着く。
                 いつか正月の薄っすら雪化粧の寂寂とした高山寺からふもとに下るとそこは喧騒の嵐山。わずかな領域で人の動きが天と地ほどある。                                             

隠れ寺というイメージで臨んだ「源光庵」。
一人座す瞑想の「迷いの窓」「悟りの窓」も足の踏み場もない。
せめて最前列に座ってベストスポットで写真でもと下種の雑念でなんとか撮った写真がこれ。
しかし 「窓」の中の庭の白の寒椿と半紅葉といえどもこの按配は これが日本人の美意識の極みだと感じ入る。
凍りつくような雪の北山の森森とした破れ寺の 赤の寒梅と白に薄化粧のモミジの「窓」の前に「恋に疲れた女がひとり」なんてちと考えすぎかな。



それにしても 門前の両脇の北山杉とススキの配列は素晴らしい演出だと感心した。
  「源光庵由来と縁起(寺パンフより抜粋)〜鷹峰山宝樹林源光庵と号し、今より650余年前の貞和2年(1346年)臨済宗大本山大徳寺二代徹翁国師の開祖によるもの・・・・現在の本堂は元禄7年の創建で本尊は釈迦牟尼仏
・・本堂内の血天井は伏見桃山城の遺物であり 慶長5年7月(1600年)
徳川家康の忠臣鳥居彦左衛門元忠一党1800人が石田光成軍勢と交戦したが
武運拙く討ち死にし、残る380人が自刃して相果てたときの痕跡である。
また本堂には
悟りの窓と名づけられた丸窓と迷いの窓という角窓がある。・・」


少し西に(50mほど)光悦寺がる。そういえばこのへんの地名も鷹ヶ峰光悦町というらしい。ここは言わずと知れた本阿弥光悦のエッセンス村 小さな祠には光悦翁の木坐像が安置され 寺内にはお墓もある。
光悦自身については なかなか不可識な人で 代々刀剣鑑定や砥ぎを家業としており おそらく武家に出入りの多い境遇(将軍家や諸大名の御用もつとめる)から他の芸術にもその才能を発揮したのだろう。
特に鑑定力を生かし 評論家として総合プロデュサーとして醸実していく
彼の人となりの描写は辻邦夫の「嵯峨野明月記」で面白く読んだ。
門から本堂までの細長い参道や 寺内の茶室と北山杉のある赴き 光悦垣に囲まれた建物とモミジのバランス その前に広がる鷹峰三山とが自然美と人工美の交錯した計算しつくされた美意識の粋の結集地 これはなにか神がかりのような気配すら感じる。


    光悦寺参道                    光悦垣                 光悦の墓

光悦寺から元来た源光庵を通り過ぎて東に100m 常照寺がある。
少し過食気味でもあり なんとなく参拝をためらったのだが 外から見る庭の紅葉と茶席の印象がよかったので また300円払った。
必見は本堂横の 会館である。ここは寺宝(光悦筆の扁額「学室」・光悦画「蓮乗日輪」)の展示や 会合に使用
や茶席の目的で2年前に新設されたと住職自ら 丁寧に親切に詳細に説明していただいた。
なんでも 「総白木で 欅・ヒノキ・松などをふんだんに使用し 天井板は総桐です この木の香りは素晴らしいでしょう。
今は木の脂で乾拭きで十分なんです。」と本当に楽しそうに語られる。

「常照寺縁起(同寺パンフレットより)〜寂光山常照寺は洛北の山裳にあり俗に鷹峰三山と呼ぶなだらかな三つの丘陵を西に望むところにある。
当山は元和2年3月(1616)本阿弥光悦の土地寄進とその子、光嵯の発願によって身延山第二十一世日蓮宗中興の祖と敬仰される寂照日乾上人を招じて開創された鷹峰壇林(学寮)の旧跡で それ以来連綿と続き世に山城六壇林中の一偉観をなしてきたのである。」


さてさてもう至福の時を過ごして満腹の状態。
参拝客が並ぶバス亭からもと来た二条まで引き返す。
そうそう 二条といえば二条城 でもここはいつも来ているので その前にある「神泉苑」に寄ることにした。

なんでもNHKの番組で京都は水の上に浮かんでいて 琵琶湖ほどの地下水があるらしい。
その水の吐き出し口の一つがこの「神泉苑」だという
確かに 周りにこの水の入る口が無いところをみると地価から湧き出していると思われる。
そしてこの前の二条城の堀に流されていると放送していた。
京都の街のど真ん中にこんな水々しい水と緑の地があるなんて
京都は奥深い処だと改めて感心しつつ帰宅の途に着く。