十六段 東山七条彷徨記



黄金週間のど真ん中。
京都東山七条にある京都国立博物館に行った。



というのが開催されているからである。
朝9時開場ということなので9時半に到着。入り口近くは人もまばらだったので 今日はゆっくり見れると思って入館すると 
なんと満室。人の頭越しに覗く。
これはこれは 奈良の正倉院展と変わらないな〜。
今回は 高野山の秘宝の内 国宝21点重文100数十点 と高野山が空っぽになるのではないかと思われるような大量のお宝の展示会である。
真言密教の教義はあまりよく知らないのだが 空海という人そのものに畏敬の念が深く 日本人では最高の天才ではないかと思っている。


混雑の中でも仏像などの立体は遠目でもよく視える。
最初の室の正面に三鈷杵を胸にした空海坐像がある。(写真は展示会一覧本より)
その慈悲と意思強く 全てをも見通せそうな端整なまなざしが人々を迎えてくれる。
出展物を大きく分けると
弘法大師や西行 源頼朝 などの直筆の書簡。
紺地に金銀泥文字の写経本
金剛・胎蔵両曼荼羅図
大日や阿弥陀 不動明などの仏画
慶派を中心とした仏像
三鈷杵や華瓶・香炉などの密教法具
などであるが
その圧倒的な件数と それ以上にその質の高さに驚かされる。
千数百年にも渡り幾多の浮き沈みを経過しながらも いつの時の権力者からも受け入れられる確かな教義と
人脈があってこその蓄積であろう。
正倉院宝物は一人の人間の一代の遺物であるが
ここは 平安・鎌倉・室町・江戸そして現在に更に繋がってその宝を積み重ねている。
いつか 台湾の故宮博物館の 圧倒的な質と量の展示物にその数千年の重みを感じたが
高野山こそ「日本の文化の臍」ではないだろうか。

興味深い展示物に 書として 三筆の一人弘法大師の筆跡は勿論のことだが
その生き様に興味をそそられる西行の自筆文を初めて目にした。



『国宝 宝簡集第二十三 僧円位(西行)書状』(写真は展示会一覧本より)
仏画では
平清盛の血を絵の具に塗り込んだと言われる両界曼荼羅図(血曼荼羅)(重文)は一枚が4m四方。
五大力菩薩(国宝)など その迫力はすさまじい。
しかしなんといっても 関心は彫刻である。
運慶・快慶など鎌倉時代のいや日本の代表的仏像彫刻の粋が集まっている。
大日如来像を中心に不動明王立像、毘沙門天立像など圧巻である。



『重文 孔雀明王像 快慶』(写真は展示会一覧本より)

そして何といっても 今回のハイライトは八大 童子立像であろう。
写真は八体の内の代表作であるが その童子の目と口元の表情から 今にもしゃべりそうな
目をくるくる回しそうな写実的で精緻を極めている。
多分 木地に漆であろうが まるで蝋人形のように その皮膚が透けているかのような
透明感と童子としての肉体的柔らか味を感じさせる。
これは もしかして北円堂の無着・世親を超えているのではないだろうか。
写真で見るのと現物をみるのとでは これほど違うものなのだろうか。
八人に囲まれて 何時間も至福を味わいたいと思うが次から次と押し寄せる人の波に
わが身を置いた。



『国宝 制多伽童子』 『国宝 恵光童子』(写真は展示会一覧本より)
 
数年前にある仏像写真集に掲載されていた高野山の国宝『諸尊仏龕』(しょそんぶつがん)にいたく感動し
桜の木で途中まで彫りかかっているのだが いつ彫りあがるものか・・・
 今回その本物が展示されていた。



白檀で高さは23cmとある。(写真は展示会出品一覧本より)
kantaが見た写真はその倍ほどの大きさだったので それが実寸だろうと思い彫っているのだが本当は半分くらいなんだ。
さらに驚いたことに この仏龕は空海が中国から持ち帰り 自分の持仏としていつも持ち歩いていたという。
そうかやっぱり kantaが感動して彫ってみたいな〜と思ったのも無理はない。

真言密教のもつ神秘さと力強さを感じつつ 特別展示室を後にした。
この博物館には過去何度か来ているが 隣の常設展示館もさすがの国立である。
多くの仏像や 考古学的遺品 陶器 絵画などがあり 何が展示されているか大体判っていたつもりが
今日は 大きな発見にちょっと興奮してしまった。
それは「国宝 高山寺 鳥獣人物戯画 乙編」である。
あの手塚治が絶賛してやまない 戯画の本物が展示してあったなんて。
当の高山寺にはレプリカしかないのに。
なんでも戯画は四編あって 一番出来のいい甲編は東京国立博物館で乙がここ あと二編はどこかにあるらしい館の
玄関前は噴水とロダンの「考える人」の像がある。
その周りに多くの人々が記念写真を撮ったり 水際で余韻を楽しむかのように座している。

夏をおもわせる日差しの中 いつもならセットのようにして立ち寄る 館の南向かいにある「三十三間堂」には行かず 
博物館を出て すぐ北隣の「豊国神社と方広寺」へと歩く。
豊臣秀吉を祭っている豊国神社は華麗な唐門をもつ豪奢な神社だが kantaはいつも神社の前の道を挟んで
ひっそりとたたずんでいる 「耳塚」をまず最初に参る。



秀吉命による朝鮮出兵時に 戦果を確認するために 殺した朝鮮人の耳を塩付けにして京都に運ばせたという。
だが 実際は初期は耳であったらしいが 耳なら2ケ必要であり輸送も大変で 鼻なら一つで済むということで途中から鼻になったというから「耳・鼻塚」が正解であろう。




『豊国神社』

今日のお目当てはこの神社の隣にある 方広寺である。
実はこの方広寺が豊国神社の北隣にあるとは知らなかった。かの「国家安康の鐘」は豊国寺の境内にあるものとばかり思っていた。
鐘は神社と寺の境にあったのだ。
それほどに神社に比べ 寺は貧弱であった。
あたかも神社の物置の様である。しかし200円の拝観料を払うとそれはすばらしい世界の切符となった。
この方広寺は1586年秀吉により創建され 特「京都の大仏殿」として知られている。
この大仏様は高さ50mの大仏殿の中に高さ19mの木製漆塗りの盧舎那仏で奈良の大仏より大きいものである。残念ながら4度も造られたが雷や地震で今は少しの遺物と跡地を残して何も無い。

(一回目は1596年の大地震で倒壊、二回目も寛文二年の地震で3回目は寛政十年の落雷でそして4回目は昭和四十八年火災で焼失)



跡地は豊国神社の真裏にあたり 現在は史跡公園としてきれいに整備されている。
ベンチのように置かれている石は当時の巨大な柱を示している。

先ほどの「国家安康の鐘」というのは1614年に造られた大鐘に「国家安康・君臣豊楽」という文字が刻まれているのを徳川家への呪いの文章として曲解し 豊臣家滅亡のための口実とされたというのはあまりにも有名な話である。
 さしずめ現在では「大量兵器」があるに違いないというところか。



『文字は写真の中央あたりの白く囲ってある部分に刻まれている』
なお現在の方広寺の本堂には嘗ての大仏の10分の1の大きさの盧舎那仏が安置され
当時を忍ばせている



方広寺をあとにして再び南下して七条通りでると博物館とその前にある三十三間堂への観覧者であふれかえっていた。
博物館を通り越して東に進むとその突き当りが東山通り七条。
そこは真言宗智山派総本山智積院(ちしゃくいん)である。
成田山新勝寺や川崎大師平間寺 高尾山薬王院など全国三千ヶ所を推し 広大な土地に壮大な金堂と洗練された庭園と等伯一派の国宝の障壁画を擁している。


『ひらひらと つくもをぬひて 落花かな』
と昭和5年4月にこの地を訪れた
高浜虚子の句碑がある。

宝物館と庭園に入るには 350円必要だが この350円は非常に安い。
宝物館は等伯一派の作品だけの完璧な保存法と展示であった。
目の前に迫りくる彼らの作品にしばし魅入られる



写真は等伯の長子久蔵25歳の時の作品で『桜図』(同寺パンフレットより)
彼はその翌年に亡くなっているので将に命を賭けた大作である。
他に『楓図』『松に秋草図』『松に黄蜀葵図』「雪松図」『松に立葵図』
など 等伯の作品がよくこれだけ集められたものだ。

庭園は中国の盧山を形どってつくられており それほど大きくはないが静かな佇まいの中に鯉がはねる音を聞きながら
縁に座ってその重厚味を感じる。


どの堂も非常に真新しく 美しい木目の柱や廊下板はよくある 古刹の重々しさは無い
襖などは一部に壁画などが描かれているが ほとんどがまだ白紙のまま。
将来順番に高名な画家の手で埋め尽くされるのであろう。



数年後か数十年後にもう一度訪れてみたいものである。

わずか半日の彷徨であるが わずか1k四方でこんなにも多くの歴史が重なり合った濃厚な日本文化のトンネルを経験できるなどというのは 通り行く多くの人々にその喜びを一人一人に言って回りたい思いだった。
今回は三十三間堂は素通りしたが ここを入れればkantaの新たな巡回スポットがひとつ出来たことになる。