山城青谷梅林と城南宮のしだれ梅を香ぐ
2025年2月27日と3月10日
友から自宅の梅の写真を送られた
鉢の梅は愛らしい
そうかこんなに寒くても彼らの摂理で顔を出すんだ
宇治市の隣の城陽市の青山に梅苑がある 折角だからもう一ヶ所 鳥羽伏見の城南宮にも寄ってみようと
思い立つ

流石の寒波も先が見えて来た 少し汗ばむ








神社の横は古墳

駅から徒歩で20分足らず のどかな田園の中 少し小高い丘の梅園
しかし殆ど開花は見られない 園の叔父さん 申し分けなさそうに今年は2~3週間遅れていると言う
叔父さんの所為ではないですよ 天気も良くいい散歩でした
この様子ではこの近辺くの梅の開花は無いだろうと 城南宮は日を改める
3月10日(月)
城南宮のホームページにしだれ梅と椿の開花状況が掲載されている
椿は満開 しだれ梅は6分となっていた今日は好天 この先の天気予報は3~4日曇り又は雨という
京阪中書島駅から徒歩3分に京都市バス19番が出る すでに20人ほどの客が並んでいた
バス乗車は15分ほど ほとんどが城南宮で降りた

現在の地図と合わせて見た
名神高速道路京都南インターから南の広大な地域
京阪国道を挟んで左に「鳥羽離宮跡公園」があるそこから見学


石碑によると『鳥羽は元来交通の要衝で都の外港としての機能、貴族達の別邸が建ち並び狩猟や遊興に耽る風光明媚な場所だった
1086年(応徳3年)、白河上皇により鳥羽離宮の造営が開始され、
その後北殿・南殿・泉殿・馬場殿(城南宮を付設)などがあいついで完成、朱雀門の南方に位置し御所と堂塔および苑池からなる東西1.5km、南北1kmの広大な離宮で当時の日記に「都遷りがごとし」といわれるほどだった
続く鳥羽上皇の時代に東殿(安楽寿院を付設)・田中殿を新たに造営(中島を加え大きく6つに分かれる)、
更に後白河上皇、後鳥羽上皇まで4代150年続くが、院政の終焉とともに離宮内の建物は姿を消していき
南北朝の動乱による焼失などもあり現在は
安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇陵、城南宮、秋の山(築山)を残すのみ
1868年(慶応4年)正月3日、離宮公園から西北、小枝橋付近で戦闘が開始され「鳥羽伏見の戦い」が開戦
1912年(明治45年)、離宮の庭園の築山だった秋の山の頂上付近に鳥羽伏見の戦いが勃発した場所を示す「鳥羽伏見戦跡碑」が建設される
1963年(昭和38年)から1965(昭和40年)にかけて南殿跡の発掘調査が行われ、後に国の史跡に指定され現在は史跡公園として整備
1998年(平成10年)、「鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋」の石碑が建設される

「鳥羽伏見戦跡碑」
ここは御所に通じる朱雀大路の入り口にあたる
長州藩が集結(詳細は
つれづれ六一段「鳥羽伏見の戦い」を歩くを御参照)


嘗ての栄華はどこにもない
「世の中を思へばなべて散る花の わが身をさてもいづちかもけむ」 (西行)


鳥居の右奥の建物は京セラ本社ビル











今年も梅を楽しんだ
ここから近鉄竹田まで徒歩25分ほどだが 途中 平安末期の政治の舞台の多くの主人公の遺跡がある
72代白河天皇により いわゆる「院政」がはじまり白河院・堀河天皇(28才夭逝)・鳥羽院・崇徳院・近衛天皇(17歳夭逝))・後白河院と続く
ただ崇徳院に関しては後の保元の乱により敗北側の院として讃岐に流されその地で亡くなり
御陵は坂出市青梅の白峯山にある
己の権力と正統性を保持するためには強引さと策略と非情さが要ったんだ
➀白河天皇御陵


両側が会社と個人宅なので入れないが円墳のようである
御陵から少し西北に上がると 出家前の西行の住まいだったという
場所 現在は②「西行寺寺跡」と「火災地蔵尊」の石碑が建つ
西行(佐藤義清)は現在の紀の川市那賀打田近辺の広大な田仲荘(大徳寺家所有)の管理者の家に
生まれ 京の此の地の屋敷とを往来したのであろう


第2京阪国道を渡り
北向不動尊の北側に大きな敷地の③「鳥羽天皇御陵」

北向不動尊の「洗心井戸」


石垣が少し見えている 方墳のようである
その西側には「院政之地」の石碑


④安楽壽院 全国に63ヵ所の荘園を持ち栄華を極めたが院政の終末と相次ぐ火災や地震で今は侘しい


鳥羽天皇の皇后美福門院の為に建てられた三重塔
美福門院は遺言で高野山に祀られ その子⑤近衛天皇の御陵とされた
宝塔が御陵になっているのはこれが唯一である
なかなか密度の濃い地域である
因みに後醍醐天皇はどこに祀られているのかと調べると これが驚き「法住寺」

南は東福寺・泉涌寺から北はJR線を越えて7条の三十三間堂・京都国立博物館
西は鴨川 東は東山麓までの広大な寺域
やはり軍事を持たない治世者が軍事組織と離反・集合して生き延びる
それほどのスケールの大きな人でないとこれは出来ない
更に堀河天皇の御陵とは

石庭で有名な竜安寺の裏山に NETによると
『方丈の真裏で、背後の朱山の麓に当たる地には南面に後三条天皇圓宗寺陵、後冷泉天皇圓教寺陵と、語朱雀天皇圓乘寺陵があり、
東方に隣接して御朱雀天皇皇后の禎子内親王園乗寺東陵があり、
その場所から延びる石段を登り切った山上には一条天皇圓融寺北陵と
堀河天皇後圓教寺陵がある。
いずれも現在は宮内庁の管理下にある。』
そうだったんだ 龍安寺は御陵の門番なんだ
更に讃岐の崇徳院の御陵とは


崇徳院崩御後都では地震や大火や荘園・領地騒動など世の中が不安になりこれは祟りだと
京都に御魂を移して敬った 「菅原道真」「平将門」と共に三大怨霊とされている
崇徳院崩御後歌で親交の有った西行は讃岐の「崇徳院御陵」と空海の善通寺を訪れている
「よしや君 昔の王の ゆかとても かからん後は 何にかはせん」西行
(あんなに立派な金玉の御殿におられても 死んでは何もならない ただお祈りするだけです)
人生七色十色
「年月をいかでわが身におくりけん 昨夜の人も今日はなき世に」 西行
(昨日は元気で生きていた人も今日はもう亡くなっているというはかない世に、自分はこの年月をどのように過ごして来たことであろうか )
了