六十一段 「鳥羽伏見の戦い」を歩く

幕末時の初めての幕府と勤皇派との衝突である現場を歩いてみた
書物では読むものの実際どんな場所で どんな距離感覚か知りたくなった
戦いの時間的推移と場所を追ってみよう
慶応3年10月14日に第十五代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、政権を朝廷に返上する。
これは外国に対する失策や国内の失政などの責任をとってのことで「近じか解散します」という感じかな
しかし実際の権力はなかなか動きそうも無い
完全な王政復興派(薩摩 長州)と徳川家を中心に合議制(土佐藩・尾張藩・越前藩など民自公の大同団結のようなもの)
との対立があったが この徳川中心の合議派がだんだん力をつけてきた
そこで西郷隆盛たちは 江戸の薩摩藩を中心に幕府になんじゃかんじゃと悶着をおこした
それに対して江戸城にいた幕臣小栗忠順などの開戦派たちが 12月25日江戸薩摩藩を襲撃する
このことは28日早速大阪 京都に伝えられ「京の薩摩を討つべし」と大阪城から15000名の幕臣派が京都に向かった
迎え撃つは薩摩 長州など5000名
数からして 圧倒的な幕府側はとにかく大挙して上京すればおさまるだろうくらいだったんだろう
豈に図らん
おそらく西郷たちの用意周到 機密な作戦が待ち構えていたと思われる
それはともかく幕府側と勤皇側が対峙したという伏見から出発!!(暑い!!)



京阪電車「伏見桃山駅」を降りると伏見大手筋がありそれを東にいくと50mほどのところに近鉄「桃山御陵前駅」がある
ここは京阪と近鉄が併走している
この近鉄を超えると5~60mほどのところに石垣がみててくる


これが薩摩藩の陣地があった「御香宮」である



由緒

『日本第一安産守護之大神として広く崇められている、神功皇后を主祭神として仲哀天皇応神天皇他六柱の神を祭る。
初めは、『御諸神社』と称したが、平安時代貞観四年(八六二)九月九日に、この境内から「香」の良い水が涌き出たので、清和天皇よりその奇端によって、『御香宮』の名を賜った。豊臣秀吉は天正十八年(一五九〇)、願文と太刀(重要文化財)を献じてその成功を祈り、やがて伏見築城に際して、城内に鬼門除けの神として勧請し社領三百石を献じた。
その後、徳川家康は慶長十年(一六〇五)に元の地に本殿を造営し社領三百石を献じた。慶応四年(一八六八)正月、伏見鳥羽の戦には伏見奉行所に幕軍が據り、当社は官軍(薩摩藩)の屯所となったが幸いにして戦火は免れた。十月の神幸祭は、伏見九郷の総鎮守の祭礼とされ、古来『伏見祭』と称せられ今も洛南随一の大祭として聞こえている。』


とある
その幕府軍はここから北に200mほど 歩いて5分ほどのところ「伏見奉行所」にあった
といっても今はその石碑のみ ところがその石碑がみつからない 30分ほどうろうろしていたら
なんと目の前の草の中に隠れていた


今は団地になっているのだがこの団地のデザインが洒落ている

雰囲気は伝わってくる
さて1月3日 鳥羽街道と伏見街道に分かれて京に向かおうとした幕府軍に対し
勤皇派は各地で隠し持って待ち構えていた鉄砲隊や大砲でもって幕府軍を負かしていく

1月4日は幕府軍は後退するも淀からきた会津藩の応援もありなんとかもちこたえる

このとき長州藩は少し離れた「城南宮」に陣取っていた
そこには京阪電車「中書島駅」から市バス19番で20分 220円のところ
伏見代官所跡から中書島まで歩いて15分 途中京都の町並みが面白い

井筒屋(何屋さんか不明)
中書島に近づくと伏見の酒処大蔵酒造や黄桜など壮観である



このそばには「寺田屋」がある


観光用の十石・三十石舟 1名1000円

「城南宮」は国道1号線に沿っている


 

宮の説明によると
『城南宮は、平安遷都の際に、国土の安泰と都の守護を願って、王城(都)の南に祀られたお宮であることから、城南宮と称えられます。そし、国常立尊 大国主命 神功皇后の三柱の神様を中心にお祀りしています
城南宮が鎮まる鳥羽の地は、平安京の表玄関に当たる交通の要衝であり、また鴨川と桂川に臨む景勝地でもありました。
 やがて貴族の別荘が建てられるようになり、平安時代の末には白河上皇が壮大な離宮(城南離宮、鳥羽離宮)を造営して院政を開始されたのです。上皇の御所や御堂、また貴族の御殿などの建物が建ち並び、人々が行き交う様子は「都遷りのようである」とその賑わいがたとえられています。
 こうして白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇と4代150年にわたり政治・文化の中心となり副都心の賑わいを見せたのでした離宮に船を浮かべて四季の移ろいを賞でまたしばしば歌の会が催されて人々は風雅の道を競いました この城南宮の守護神として更に崇められ一層賑やかに祭礼が行われるようになりました 
境内に続く馬場では競馬(くらべうま)や流鏑馬(やぶさめ)が行われ腕前を競い合ったのです
後白河法王は今様(いまよう)を好み「梁塵秘抄」をしましたが その中に「いざれこまつぶり城南寺の祭り見に・・・」という祭見物を誘う今様があります』

とある
なるほど 本当にここは皇室関係の建物かとおもうほど管理も行き届き
細部まで精錬されているまさに離宮だ
塀を一つ離れると車が何万台も行きかっているのに
天国と地獄の差である
この庭が500円(300円足せばお茶付)の入園料だがすごい
桂離宮の次にすごいと思った



                       遠くに見えるは「京セラの本社ビル」

ここで毎年2回「曲水の宴」が開催される場所

『清流にのぞんで詩歌を作り盃を巡らす曲水の宴は、中国古代、周公の時代に始まったとされています。書の手本として名高い『蘭亭序』は、永和9年(西暦353)3月3日に王羲之が修禊の儀式をして主催した曲水の宴で、人々が詠じた漢詩に寄せた序文です。やがて曲水の宴は日本に伝わり、顕宗天皇元年(485)に天皇のお出ましを仰いで行われたと『日本書紀』に記されています。ただ、現在も神社にお参りする時には必ず手水を使って口と手を洗い心身を清めるように、重大な神事の前には川辺に赴いて禊(みそぎ)祓(はらえ)を行っていました。遠い昔から、春先に清流で身を清めて不祥を祓い、無病息災を祈ることが素朴な習俗として行われていたと思われ、中国より伝来の宴を受け入れる素地があったのです。
曲水の宴は、奈良時代から平安時代中期までは宮中の年中行事として正式に行われ、後に宮中で途絶えがちになると、藤原道長や藤原師通などの貴族が主催して行ったことが記録に見えています。戦乱の世となり長く途絶えていたのですが、江戸時代を通じて内裏の襖絵に和漢の曲水の宴の様子が描かれており、関心の高さを知ることが出来ます。現在城南宮で用いている羽觴は、御所の杉戸絵を参考に復元したものです』
とある







とまあこんな具合
やはり1月4日に岩倉具視などにより勤皇派が「官軍」となって錦の御旗を得
幕府軍が賊軍になったすなわち与党から野党に転落したということが
戦うお互いにとって精神的にも大きなものがあっただろう


1月5日旧幕府軍は淀城に向け撤退を始める
退却のおりには火をつけて回り 市街も焼失した


城南宮から市バスで中書島までもどるも バスは一時間に1本 炎天下30分待ってなんとか中書島駅に
もどり 京阪電車で一駅大阪に向かって乗る
降りたところは「淀駅」
今駅周辺は高架の工事中
プラットフォームから淀の「京都競馬場」がみえる


駅から150mほど北にいくと
淀城跡がある
(上の図面は駅前再開発の以前の駅の位置で現在は斜め右上に移動している)


京都の入り口の守りとして当時は水に浮かぶ防衛都市のよう
桂川 宇治川 がここで合流して淀川となる
桂川の出口の左側に「與止神社」があったが今は淀城跡内に移されている
この與止神宮は備前国一宮 與止日女神社(よどひめじんじゃ)を勧請しており
この淀というのはここからきているのではないだろうか




なかなか立派な石垣である
京阪電車の高架が後ろにせまっている



1月6日旧幕府軍はこの淀城で体制を整えるため城をめざして退却する
ところが淀藩は城主不在のためと開門されない(これも御旗の威光か)
しかたなく遠くに見える男山岩清水八幡宮(中央の2つこぶの山)のふもとまで 途中 淀小橋 淀大橋を壊しながら
南下する 男山の西側が「橋本」である
京阪電車では淀から2駅である

橋本は宿場町 新撰組を含む旧幕府軍は男山の麓や橋本の遊郭宿一帯で交戦の構え



今も宿場町の風合いを感じさせる

ここには橋本の砲台がある
淀川をはさんで向いの山崎にも砲台がある 当時京都の守りとして川の両岸にあった
この大砲には官軍も困った
ところが山崎の大砲の係り「津藩」はやはり御旗の威力か 橋本めがけて撃ちだした
これには近藤勇もびっくら仰天



旧幕府軍の拠点 橋本「久修園院」と向こうは大山崎の山並
ここで旧幕府軍は完全に分解
ずたずたになって大阪城に帰るが 大将慶喜はいち早く江戸に帰ってしまう
これで万事休し 霧散してしまうのだが
旧幕府軍の死者は15000の内280名
官軍の死者は5000名の内110名
といわれる
数百年も戦争を知らない武士達が 実際はどんな戦争をしたのだろうか
この時代は刀で切り合って死ぬというより
大砲や鉄砲で傷つき死ぬ方が多かったのだろう
当時の武士の多くは平安貴族のように変質してしまい 
幕末になると農民上がりや下級武士が憂国の念強く命を懸けるような
様相ではなかったのか

さてこんな混沌とした現在
かつての平安末期の武士や武士末期の農民や下級武士達のような
熱きつわもの共が果たして現れるのだろうか