司馬遼太郎記念館と石切劔箭(いしきりつるぎや)神社を巡る


一度は訪れたいと思って20年が経つ
好天に誘われそれに添う

「司馬遼太郎記念館」は近鉄八戸ノ里駅(東大阪市小坂)から徒歩10分足らずの所に有る

近鉄鶴橋駅で名古屋行特急「ひのとり」に出会う

八戸ノ里駅から布施警察署前を通り府立布施高校の横を抜けて閑静な住宅街に入る

母屋の玄関

大きな庭だ
庭に向かって氏の書斎・仕事場がある
撮影はガラス越しで許される
キューバのヘミングウェイの部屋の撮影と同じだ
(つれづれ93段メキシコ・キューバの旅その3参照)
 
自筆の歌碑

 そしていよいよ今回の目的の銘板だ
氏は1996年72才で亡くなっている
その後新聞に「記念館設立の為の募金」が掲載されていた
当時氏の作品にはまっていたので躊躇なく応募した
確か1口1万円で特典は銘板に氏名を掲載するというもの
8400の個人・企業・団体の名前が記されている
小さい字だが捜す
 
あった!あった!
実は10数年前ここを訪れた知人が撮影して送ってくれていた
でもやっぱり自分の目で見てみたいと思って20数年が経つ
いつでもこれると思うとなかなか来れないものだ
「記念館」は母屋の隣にある
設計者は安藤忠雄氏
ここでも安藤さんに出会えた
オープンの際に「礼状」と「招待券」が送られてきた

大事に仕舞いすぎて所在不明の「招待券」

 
館内は撮影禁止
自動券売機で500円
連休とあってか次々と来館客がある
以下は館のHPとパンフレットから拝借
 
ちょっとした喫茶室と記念品と著書本の販売もある
そして地下1階から地上2階までの壁全面の書架
氏は1つの作品が完成するのに600点の資料を集めると言う
ここには4万点の蔵書・資料が展示されている(触れることは出来ない)
そして氏の作品の原稿の一部が展示されていた
原稿には何度も訂正や加・減筆が赤や黄色や青や緑のサインペンで書かれていた
やはりプロの大作家ともなると推敲が半端ではない

氏との出会いは図書館で選んだ「街道をゆく」である
「街道をゆくシリーズ」「梟の城」「韃靼疾風録」「菜の花の沖」「空海の風景」「大坂侍」「この国のかたち」
「項羽と劉邦」「新選組血風録」など読んだのは覚えている
「菜の花の沖」の主人公高田屋嘉平が活躍した函館と出生地の淡路島にはその記念館がある
また司馬氏の命日2月12日は「菜の花忌」として毎年同館でイベントが催される
「空海の風景」に魅了され空海が修行した「青龍寺」を含む旅(つれづれ99段西安・ウルムチ・敦煌の旅その2参照)
に参加した 氏の影響は大きい

子供の頃
今は亡き母が家の近くの薬局の奥さん(薬剤師)と親しかった
「あそこのご主人は有名な小説家なんや」と言う
聞いたことのない名前だし興味も無かった
氏の死亡記事は新聞紙全面だった
母は「あの子ももうちょっと我慢すれば小説家の奥さんでおれたのに」
と言う
あの子というのは薬局の奥さんでそのご主人とは司馬氏のことである
前妻のことや前妻との子供のことが世に知れたのは氏の死後である
母は離婚の段階で知っていたのだ

八戸ノ里駅に戻り「石切駅」に向かう
石切駅は生駒トンネルの手前にあった
トンネルを超えると奈良県である

このトンネルで過去多くの人命が失われている
1946年トンネル内火災で23名が死亡
1948年トンネルを通過していた列車のブレーキが利かなくなって
石切駅から5つ大阪寄りの河内花園駅の停車中の電車と衝突46名が死亡

石切劔箭神社は本宮と上ノ宮がある
生駒山の裾の本宮から山腹まで勾配がある
電車はその真ん中を通過する
従って駅で降りると上ノ宮までは殆ど登りなく10分ほどで行ける
しかしここを参拝する人は少ないようだ




1人がお百度参りをされていた

大阪の中心部が一望出来る
近鉄線のガードをくぐると本宮参道に出る


石切大仏
日本で3番目に大きいとある
高岡市の「高岡大仏」も鎌倉大仏に次いで3番目だと書いてあった
どっちも座っていては測定出来ないわな

子供の頃から「でんぼに利く石切さん」と教えられてきた
その「でんぼ」は今 癌封じとなっている 本来「でんぼ」は「伝法」からきているらしい
商店街は「占い屋」が多い
客がいっぱい入っている
仕入れが無いだけに儲かるんだろうな

お百度参りの人でいっぱい
この地域一帯は心の迷いや体の歪みを皆で癒しているんだ

亀池

生駒山(642m)の山頂には多くのTVタワーが並ぶ

帰りは更に下に10分ほど降りて
大阪メトロ中央線のコスモスクエア―行に乗る
好天で願いも叶へ良い日だった