四十九段 黒谷(くろだに)を歩く


「黒谷」という名前は以前からなにか意識にひっかかていた
京都の聖護院のというだけで なにか秘められた懐の深さを感じる地名であった

どうにかいけるチャンスが出来たので 歩いてみた
京都市左京区は平安神宮の裏
丸太町東山の角を上がって一筋目を少し東に行くこの一帯が聖護院
「聖護院」てまず思い浮かぶのは「生八橋」 やっぱりこの一帯に本店やら
分店が3軒ほど並んでいて八橋の匂いが充満している
その中に「本山修験宗総本山 聖護院門跡」がたたずむ
修験者のメッカというところ さすがに門跡とあって 門も立派だが
全体が清閑として ゴミひとつない 由緒の正しさを強調するかのような雰囲気
なにか覗き込むにも おもんばかる


創建は増誉大僧正により 900年ほど前らしい
全国修験者の2万寺の総本山として栄え後白河天皇の皇子、静恵法親王が宮門跡として来られてから
菊のご紋が付いている。

この門の横の道一本はさんで 八つ橋の店が並んでいる
この一帯はかつては森と畑が広がり
有名な「聖護院大根」や「聖護院村の八つ橋」と牧歌的な風景だったのだろう

先に来た丸太町東山の西北一角は現在広大な京都大学で占められている
「八つ橋」を西に50m出れば 京都大学付属病院の入り口である。
少し下がれば 岡崎公園・動物園・平安神宮・美術館
と京都の東の顔だが 一本裏手の「黒谷」にはなかなか足が向いていないのだろう

聖護院の通りを真東に15分ほど歩いて「金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)」に向かう 
何故か白人の観光客の姿が目に付く
日本人でもなかなかと思うのに なんとマニアックな外人が多いことかと思いながらすれ違う。
「金戒光明寺」は立派な山門である


このお寺通称くろだにによばれ 1175年頃法然により創建されたとある
法然といえば 浄土宗 もう少し南に知恩院がある。ここも大きな山門だった。
浄土宗は門が大きいのかな。
黒谷のイメージはやはり新撰組だろう
幕末の頃京都守護職の会津藩の本陣でもあり 当然その庇護の下にあった新撰組とのかかわりも大きい
近藤勇などが壬生からしょっちゅう通ったことであろう。
其れをうらずけるかのように 北東の山手に「会津藩殉難者墓地」や鳥羽伏見の戦いの戦死者の墓が並ぶ




光明寺から真如堂にいく
ここから10分ほどの距離だが 途中多くの塔頭が並んでいる
どの塔頭もその佇まいがなんとも落ち着きがあって
この地名と周辺の景色に溶け込んでいる

おそらく何100年も変わらずここに この様な佇まいであったのだろう
台風や地震や火災や戦いがあっても

真如堂は谷の底を少し上った所
思うに この黒谷とは 少し先の東山と少し西に南北に横たわる吉田山に挟まれた
森深い 細長い谷のことではないのかとか思う内に真如堂に着いた

1000数百年前比叡山延暦寺の僧 戒算(かいさん)上人の創建という。
大きな本堂の前に
菩提樹が植わっている 相当な樹齢だろう 夏の暑い日にこの木の下で瞑想なんて
釈迦ぶってみたいものだ



この真如堂の近辺にも多くの塔頭があり この谷全体が寺域のような感じで
京都は本当に底が深いというか 何でこんなにあちこち楽しめるのかと今更ながらに感じ入る

真如堂から今度は西に向かうと少し急な坂があり えんこらえんこらと上るとそこは吉田山
京都府のデータによれば、南北800m、東西300m、そして最高点は125m。
この山の大部分は吉田神道の宗家「吉田神社」の境内という。

由緒によると
清和天皇貞観元年4月(西暦859年中納言藤原山陰卿が春日の四神を勧請し平安京の鎮守神とした
とあるから もう1150年ほど前の話ではないか
吉田兼好でも名高いが
この山の西側裾に広がる京都大学のシンボル的なお山
本当に山から見下ろすと
京都の町並みも一望だが 京都大学が真下に見える

吉田神社には裏から登ってきたが 京都大学正門から東100mほどで吉田神社の大鳥居
京都大学の大時計を見ながら 門の前を西に向かう
いろんなサークルの活動が あちこちで繰り広げられている
学生の多くは自転車で移動しているようだ
本当に広くてぜいたくな空間だと思った。
 
本当に京都は奥深い