百三十九段 『国宝「久能山東照宮」 徳川家康の歴史を訪ねて』
2023年12月10日~11日

NHKの大河ドラマの「どうする家康」も佳境に入りもうすぐ最終回である
拙者は見ていなかったが予てより訪ねてみたかった場所が 効率よく一気に周れると思い
上記の行程のツアーに参加した
1日目
日曜日の好天とが相まって新大阪駅の待合所付近は日本人・外国人と大混雑


家康ブームとあって今回の参加者は総勢86名
バス2台に分かれるらしい 拙者は1号車である
新幹線は京都・米原そして岐阜羽島で降りる
大野伴睦の政治駅だと騒がれた駅だが今も駅前はホテル群と伴睦の銅像以外に見る物は無い



名鉄観光バス2台が迎えに来ている
一番目の目的地は米原と岐阜羽島の中間点の「関ケ原」である
30分ほど滋賀県側に戻ることになる
バスは満席 同席は80才のおじいさん(以後ハチジーとよぶ)
新幹線も相席だったがこの先もハチジ―と相席になると思い挨拶をした
小柄な気さくでやさしそうな方だった
桃配山の家康最初陣地跡である




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石田光成の陣は右奥の山の裾である

バスで石田光成の本陣 笹尾山まで移動する ガイドが待っていた
約1時間ほど彼の史観も混ぜて面白おかしくガイドをしてくれる
彼によると 桃とは中国では非常に縁起が良いということや壬申の乱の大海人皇子
が勝利した時にこの山で臣下に桃を与えてというのでここに陣をはったと言う事だが
もう一つ この地は もし負け戦になればまっ先に東方面に逃亡出来るからではないかと笑う






笹尾山の方から見た決戦地
毛利や吉川は背後の山影で姿も見せなかったと云う

ガイドの説では戦いは6時間で決着したが実はそれ以前に既に様々な駆け引きで勝負は決していたとも言う
三成が何度も家康の背後の山影に居る吉川広家や毛利秀元に出撃を要請するも動かなかった
家康と毛利の裏取引があったと云われる
もし彼(毛利)が家康を攻めれば日本の姿は又違ったものになっていたのだろう
現実は島左近が黒田の鉄砲隊で倒れ 右翼にあった小早川秀秋などが三成を裏切って攻めた
三成は背後の伊吹山に逃走
島津義弘は替え玉を大将にして自分は一兵卒の姿で敵陣の前を横切って逃走したと云う

捕らえられた石田光成・小西行長・安国寺恵瓊は京・六条河原で処刑となった
ガイドが熱弁していたのは「この戦いで8000人~12000人の人が亡くなっています
2つの首塚もあります そこら中に人の骨が埋まっていそうで気持ち悪いという人もいます
私達は毎年9月15日に死者の霊を弔う行事をしています
気持ちよく皆様に来ていただけるように清めております」
ガイドを乗せて再びバスで関ケ原町役場の隣にある「岐阜関ケ原古戦場記念館」に行く

記念館から見た黒田長政の陣
その横は家康最終陣地でもあり「首あらため」の場所である
戦果の首を差し出してその評価で領土や金品などの褒章を配分したのである

家康最終陣地跡でもあり首検めの場
ガイドの話では実際には骨は全く無かったというが
その絵面を想像したら野獣そのもの しかしこの絵面は首こそ並べないかもしれないが
世界中の人類が同様の事を繰り返してきた
人類の歴史は将に人殺しの歴史でもある
ガイドとはここでお別れの拍手
記念館は人で混雑していた
食堂や土産物売り場・戦場で使われた兜や武器のレプリカ
大河ドラマで使用された衣装
武士の目線で戦いを体験するシアター(行列が出来ていて時間的に入れなかった)
などりっぱな建物だった






記念館の芝生で昼食のコンビニおにぎり
次は愛知県岡崎市の岡崎公園と岡崎城
1542年12月26日岡崎城にて家康誕生



大河ドラマ館




武田信玄との三方ヶ原の敗戦「しかみ像」

能舞台では地元のラジオ局のトークショー



家康産湯の井戸







30分毎に時計台の戸が開き家康が人生教訓を語りながら舞う
4時過ぎといえども日の落ちるのが早い

ここから松平郷まで3~40分かかるらしい
矢作川の支流 巴川の清流を遡る 到着の頃はもう闇に包まれている
懐中電灯の元に松平東照宮に着く

松平郷について HPによると
『松平郷は、豊田市街から東に10km、国道301 号線沿いの山村にあります。 東に標高684m の炮烙山や標高606m の六所山を有し、西に行くに従ってなだらかな丘陵地となっています。
徳川300 年の礎となった松平八代の歴史は、ここ松平郷から始まります。』
松平氏の動向
松平郷の開拓領主は、後宇多天皇(在位1274 〜1287 年)に仕えた公家の在原信盛と言い入郷したのは弘安年間(1278 〜1287 年) の頃で、現八幡神社松平東照宮境内に本屋敷を構えたと伝えられています。
信盛の子信重は、開拓を進め人馬の道を作り交通の便を図りました。 後にこの地を訪れた旅の僧徳阿弥は、信重の末娘水女の婿として家を継ぎ親氏(ちかうじ)と称しました。
ここに徳川家の始親氏は、近隣7 ケ村を手中にし松平家の勢力拡大のきっかけをつくりました。 親氏の弟泰親は、その子信広、信光を従え岩津城を落としました。
この戦いでけがをした信広を松平郷に残し、信光とともに岩津を居城としました。
松平宗家三代信光の代に岡崎・安城に勢力を広げ西三河の大半を手中にし、戦国時代の一大勢力となっていきました。 七代清廉は安城から岡崎に居城を移し、三代信光の再来を思わせる活躍をし、三河一国を支配しました。
尾張守山を攻めた清康( この時25 歳) は近臣に殺され、兵は総崩れとなりました。 八代広忠はこの時10 歳。 清廉の死により松平一族の支配圏は弱体化し乗の今川氏、西の織田氏から攻められ支配圏は縮小していきました。
広忠もまた近臣の者に殺されたことを知った今川義元は、岡崎城を手中にしました。その時、後継ぎ竹千代(8 歳) は、織田信秀の元にありました。 松平家初代親氏の天下泰平の願いは、竹千代(
家康) に託されました。祖松平太郎左衛門親氏(不詳〜1394 年4 月24 日没)の出現です。』

昼間のHPの写真
宮殿の裏側に「産湯の井戸」がある(岡崎城にもあったがここにもある)


石の蓋で塞がれ井戸水は見えない
HPによると
『在原信盛が掘ったと言われ、松平家は代々この井戸の水を産湯に用いました。
岡崎城主松平広忠の子、竹千代( 後の家康1542 〜1616 年) が誕生した際、この水を竹筒に入れ早馬で届けたと言われます。』
周りが全く見えないのでどうしょうも無くバスに戻る
5時20分集合で皆揃っているのにバスが動かない
添乗員(30歳代の女性)も運転手もいない
その内 運転手が戻ってきてマイクで話し始める
「今 2号車のお客さんが「差別だ」と言って揉めています」
何でも1号車と2号車はホテルが違う
1号車のホテルは駅(豊田・新豊田)に近く(徒歩18分くらい) 2号車は更に遠いホテルらしい
このツアーは明日の朝食以外は用意されていないので自分で工面しないといけない
それは最初からわかっているので問題ないが
ツアーには「トヨタ割クーポン1日5000円」がついている
それで食事やお土産を買ってくれなのだが ただし豊田市内のみ有効
明日は8時出発なので使えるの今晩のみだ
その内添乗員も顔色を変えて戻って来た
時間は刻々と過ぎるが2号車では70歳くらいのじじいがマイクで煽っている
「どうする添乗員」
1号車でも質問や苦情が飛び交った
ホテルの食堂は日曜日で休みだし 5000円のクーポンをもらっても
夜半にどこで使えばいいか判らない
駅付近には飲食店もまだ空いているだろうが道も不明だし老人にはきつい
添乗員が再び帰ってきて「会社の許可も取りましたが なんとかこの案で妥協してくれ」という
一旦バスでホテルに入り荷物を置いて 駅近まで行きたい人はバスで駅前まで送り
帰りは各自歩くかタクシーで帰ってくれという
1号車はそれで納得して6時前に動いた
2号車のことはどうしたのか最後まで情報は無かった
じじいは夕食はいい加減でいいのだがよほど高級なものを食べないとクーポンは使いきれない
ハチジ―も不安そうにしている 一緒に駅に出て食堂と土産物店を捜しましょうとなり
2人で豊田駅周辺を歩いた

豊田駅はJR新豊田と名鉄豊田駅がある
駅は200mほど離れている その間が歓楽街で賑わっている
2人は何を喰って良いのかわからないし うろうろ
薄汚れた中華料理屋が目に入り看板を見たら「トヨタ宿割OK」の張り紙


とりあえず生中で乾杯
ハチジーは旅行が生きがいだという 加古川近くにお住まい
60歳で退職し兎に角まめに全国を周られている
拙者の様に一人で電車・バスではなくマイカーと免許書返納後はツアー参加が中心
千葉県とか茨城県は余り行けていないので見どころなどを教えてもらった
ハチジ―は孫に「えびせんべい」などの土産物を頼まれているのでビールと定食2000円使って3000円分のクーポンを残した
じじいはみやげものは要らないので この店で一番高い「大海老5匹入りエビチリ」2800円を頼んで総額4000円
ビールと海老と豆腐で腹が一杯
ハチジ―が駅前の「名鉄ホテル」なら土産もあるだろうとすたすた歩く とても80才とは思えない速さ
フロントの横に土産物コーナーがありクーポンもOK ハチジ―はきっちり残りを使った
じじいは嵩張らない いつもの蜂蜜の小瓶で丁度使い切った

2人は一杯気分でクリスマス化粧の町中をぶらぶら しかし思う以上に建物が多く方向感覚が狂った
道行く人になんどか訪ねた ハチジ―の早足に汗をかきながら後塵を拝しホテルに辿り着いた
シャワーの後 知らない間に寝てしまっていた
明日は6時30分朝食 8時出発
2日目

ビジネスホテルの食堂も労働者と団体客で満席
今日は少し天候が気になる 予報では昼から雲行きが怪しい
高速道路で静岡県に入る
浜名湖を越えて浜松城公園に向かう
浜松市役所の真ん前である

HPによると
『徳川家康は29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事で、特に元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦は、関ヶ原の合戦以上の激闘であったと伝えられています。家康にとって、浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代だったと言えるでしょう。』


城内に有る井戸 何故か賽銭で埋まっていた





道を挟んで東側に小高い丘がある 引間城趾(東照宮)である





浜松から再び高速道路に乗って静岡市に入る
駿府城公園と城址は静岡駅から1.2km 徒歩約15分 県庁の前に広がる

今日は月曜日なので「紅葉山庭園」「櫓」などは休み
公園内や天守閣発掘現場などは自由に入れる

県庁と堀とお城 その隣が県立歴史博物館(下の写真)


東海道中膝栗毛





紅葉山公園 定休日

家康手植えのミカン(ほんまかいな)



ここは感動 城跡の発掘現場てそうそう見れるものではない
将来 ここに本丸が再建されるのだろうか
家康と駿府城
ホームページより
『今川氏全盛期9代義元の時代天文18年(1549)に、家康(幼名 松平竹千代)は人質として19歳までの12年間、駿府で生活しています。後に戦国大名、そして天下人へと成長していく過程で臨済寺の住職太原雪斎などから種々の教えを受けており、家康の人間形成の上で非常に重要な時期を駿府で過ごしています。戦国争乱の中、永禄11年(1568)10代氏真は甲斐の武田信玄に攻められて掛川に落ち、駿府の町は焼き払われます。さらに、天正10年(1582)には家康が駿府の武田勢を攻め、再び戦火に遭った中世駿府の町は、ほぼ壊滅状態になりました。駿河国を領国の一つとした家康は、天正13年(1585)から居城として駿府城の築城を始め、天正17年(1589)に完成させます。現在の二ノ丸以内の部分です。しかし、家康は翌年関白豊臣秀吉の命によって関東に移封(国替え)され、豊臣系の家臣中村一氏(なかむらかずうじ)が城主となります。豊臣秀吉亡き後、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603)征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開きました。慶長10年(1605)将軍職を2代秀忠に譲った家康は、その翌年駿府を「大御所政治」の拠点の地と定めて再び戻ってきました。天正期の駿府城を拡張(三ノ丸)修築し、駿府の町割りや安倍川の治水事業に取りかかり、現在の静岡市の市街地の原型が造られたのです。そして、家康自らは、晩年も「大御所」として天下の実権を掌握し、駿府は江戸を
凌ぐ政治・経済・文化の中心としてその黄金時代を迎えたのでした。』

さていよいよ最後の訪問地
日本平と久能山東照宮へ行く

ロ―プウエイは約5分 10分間隔で運行
今日は団体が多いということで5分間隔
白人の学生の団体もあった

まだ少し残り紅葉

日本平と久能山の間の谷は長い年月の間の雨や地震で土砂が流れ去り急峻な崖が残る

ロープウエイから観る太平洋
久能山の表参道から東照宮までは1159段(いちいちごくろうさんと言いながら登る)
表参道はこの海岸の7km続く石垣いちご畑の中程にある

日本平からのロープウエイだと100段で宮に着く




















言葉が出ない 一度は来たかった元日光 良かった良かった

日本平の「夢テラス」に上がり駿河湾と富士を観る

富士は日本一の山
後半は雨を覚悟していたが墨絵のような富士山も観れて
いろいろ問題もあったようだが家康さんの誕生地からお墓まで
駆け巡りました 楽しい旅でした
了