四十二段 東小浜(福井県)の遺跡・名跡・名刹を巡る
  (2005年11月14日)

日帰りサイクルシリーズも随分遠方に来てしまった
特急サンダーバードで 敦賀まで 乗り換えて東小浜に行く
敦賀で乗り継ぎ1時間30分待ちの為 途中下車して「気比神社」に行くことにした
駅から歩いて15分 北国独特の長いアーケードの商店街をぬけると 鎮座ましている

  

この気比神社は考古学的にもなかなか興味府深いところである
気比神宮は大宝2年(702)に建立されたと伝えられ仲哀天皇をはじめ7柱のご祭神をまつる北陸の総鎮守、明治に官弊大社となる。
高さ11メートルの大鳥居は木造としては春日大社(奈良)・厳島神社(広島)と並ぶ日本三大鳥居の1つで重要文化財に指定されている。
考古学的には この敦賀自体の名称は渡来人都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の渡来伝承によるものであるといわれ
地理的には加悦・新羅との関連(例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦(しろきひこ)神社・白城(しらき)神社・白鬚神社などがある) 
特に 人的には応神天皇 や継体天皇との係わりが推測される

「古事記」仲哀天皇 五 気比神宮
の項には
「かれ 健内宿禰命 その太子(後の応神天皇ホムタワケノ命)を率いて 禊せむとして淡海また若狭国経歴し時
 高志の前の角鹿に仮宮を造りて坐さしめき
・・・・・・今に気比大神と謂ふ」とある

新羅の王子天日槍と応神天皇 その末裔である継体天皇
そして今から行こうとしている東小浜近辺の遺跡・古墳群との係わりなど興味に尽きない

参拝後 発車までまだ時間があるので 神社前からタクシーで「気比の松原」に行く

三保の松原(静岡) 虹の松原(佐賀)と共に日本三大松原の一つ

夏の終わりもまだまだ暑い 思わず飛び込みそうになる
待たしているタクシーで再び敦賀駅に

普通電車で約50分 「東小浜」に着く 途中美浜原子力発電所や三方五湖方面を通過する
駅舎の中にレンタサイクル場がある 最近のJRもなかなか商売上手である りっぱな駅舎の2/3はデイサービスに使用している
早速“愛車≠手に入れヤッホーの世界に入る
駅のすぐそばに「福井県立若狭民族資料館」がある

さすがに県立だけのことはある建物 展示物や展示方法も一級
この地域の様子がつぶさに知れる
いつも思うが どこの博物館・資料館もほとんど人が来ない・いない
ファンにとってはゆっくり見れて 本当にありがたい
どこかでやっている つまらない「博覧会」など一日何十万人とか 入場制限もでたとか
もったいない・もったいない
昼食はこの資料館の庭で

静寂さの中に 鷺の夫婦と弁当の残りにぱくつく鯉のはしゃぐ音
福井の殿様になった気分

最初の名所は駅からサイクルで5分ほどの「若狭国分寺跡」



伽藍配置は、南大門・中門・金堂・講堂と軸線上に配し、その東に塔を置くという形をとっている。
なお 現在は金堂跡に釈迦堂が建てられている

続いて駅からまっすぐ南に500m
「若狭姫神社」(下社)豊玉姫命がある
養老5年(721年)創建


鬱蒼とした境内にひときわ目立つ「千年杉」に驚嘆
屋久杉と違って 背高くボリュームがある。
 そこからまた南に1.5km
「若狭彦神社」(上社)彦火火出見尊
霊亀元年(715年)遷座

人気も少ないせいか昼間といえど何となく ぞわぞわする
参拝して早々と引き上げる

さていよいよ今日のお目当て 「若狭神宮寺」に向かう
神宮の由緒によると和銅7年(714年)元明天皇の時代の創建



なんといっても奈良のお水取りのお水送りの寺として有名である
神社の由来書に
『若狭は朝鮮語のワカソ(往き来)が訛って宛字した地名で、・・・・この地方は若狭の中心で白鳳以前から
ひらけ、この谷は上陸した半島大陸の文化が大和へはこばれた最も近い道であった。
それは対馬海流にのってきて着岸した若狭浦の古津から国府のある遠敷(おにふ=朝鮮語オンフ(遠くにやる)が訛った)や
根来(ねごり=朝鮮語(ネ、コーリ「汝の古里」が訛った)と京都や奈良が100キロほどの直線上にあることである・・・・』
とある
なるほど若狭とか根来とはそういう意味だったんだ
本堂で住職さんの寺の由来 仏様のお話など 世相の憂さ交じりの説法がある
本堂の前横に二月堂の「若狭井」に送られ本尊に供える「閼伽水(あかすい)」が湧き出る

 


こんこんと湧き出る清水を口にした時 千数百年の時をを経て今自分の体内に神水が注ぎ込まれた
という思いで思わず実が震えた
お水取りのお水送りというのは
『若狭神宮寺に渡ってきたインド僧「実忠」は東大寺に二月堂を建立した 752年の大仏開眼の2ヶ月前
から天下世界の安穏を願い 14間の「祈りの行法」(修二会)を始めた この行の初日実忠和尚は「神名帳」を読み上げ 
日本国中の神々を招き 加護と成就を請うたが若狭の「遠敷明神」だけが漁に夢中になって遅れた
そのお詫びとして本尊に供える「閼伽水」を献じるという約束をする

明神は地面を割ると黒と白の2羽の鵜が飛び出してきて穴から清水が湧き出る
そして近くの根来白川の川渕から地下を潜って奈良の「若狭井」に通じているという』
この清水の湧き出ている井を「若狭井」といい
地下に通じている場所を「鵜の瀬」と呼ばれる
神宮寺から上流2kmである

あの「鵜の瀬」に行けるという思い出ペダルを必死に漕ぐ



毎年「お水送り」にこの地に3000人ほどの人がこの川原に集まり
左下の所から清水を献上する。
この地はなにか霊を感じさせる 荘厳さと神秘さをもっている
1300年ほどの間一度も途絶えることなく営まれてきた重みが感動に結びつく

東小浜には100台のレンタサイクルがあるというのは この為だと納得した
もうこの水と一体になって奈良まで行ってしまいたい思いだが
感動の余韻のまま 明通寺に行く



ここの本堂と三重塔が国宝というこの地方ではまさに名刹
縁起によると
『大同元年(806)桓武天皇のとき、征夷大将軍坂上田村麻呂公が蝦夷征伐に際して創建したと伝えられ、今の本堂、三重塔は中興の僧頼禅が棟上し、その他鎮守堂、大鳥居など24坊があったと伝えられている。
 守護・地頭らの戦勝祈願を繰り返し行うなど、武家と関係を保って寺領を拡大し伽藍整備を行っていく。
 国宝の本堂は、正嘉2年(1258)に建立された、入母屋造桧皮葺、桁行5間(14.72m)・梁行6間(14.87m)の建物。屋根の勾配のきつさと、柱と柱の間を幅広くとるなど建築資材の使い方や組み方が豪壮。武家社会の円熟期の象徴とされる建物。
 三重塔は、文永7年(1270)建立の、初層平面方三間(4.18m)総高22.12m、桧皮葺木造三重塔婆。全体的なバランスの良さや組ものの精密さなどから、高度な建築技術を駆使しており、国内でも鎌倉建築を代表する建造物。
 平安後期作の国指定重要文化財、木造降三世明王立像(像高252.4cm)、木造深沙大将立像(像高256.6cm)、木造不動明王立像(像高161.8cm)などを所蔵する。
 本堂の正面左側にある池のほとりには、小浜を詠んだ水原秋桜子の歌碑がある。』

本堂で若い僧が仏像や寺の説明を詳しくする
こちらもつられて質問する
「なんで坂上田村麻呂の創建なんですか」
「蝦夷統制時 都に敵の大将アテルイなどを連れ帰ったのは この近くの若狭の港ではないだろうか
捕虜死刑後 弔う為にこの地に建立したのではないだろうか」という説明
若い僧は話をやめない

実は帰りの列車まで40分足らず
「すみません 4時半の汽車にのりますので」と
おことわりして 寺を後にした
駅まで25分 必死にペダルを踏む 自転車を返し 切符を買って
飛びのる
汽車の窓から田園にぽつりぽつりと古墳が見える
 この素晴らしい若狭の一日を噛み締めながら帰途に着く