百三十二段 丹後半島北部を巡る

 嘗て丹後王国論争があった丹後地方
王国の是非はともかく 非常に強力な集団があったことは間違いない
網野銚子山古墳や神明山古墳など200m前後の墳丘を持つ古墳が
存在するのも嘗ての日本海の地理的条件の重要さを表してる
今回はその1部 間人(たいざ)周辺を歩いてみた
間人とはなかなか読みずらい
このミステリーな地域に皆様を誘ってみよう


1日目

京都駅から各停で園部まで行き福知山行に乗り換え
福知山から丹後鉄道で宮津まで 宮津で乗り換え網野まで行く 4時間以上かかる
朝から雨である 今日は殆ど移動日にして良かった
日帰りなら絶対出かけていない天候
宿を取っている以上雨ではキャンセルできない
今回は遺跡を中心に周るが ある新聞に写真付きで「立岩(たていわ)」が紹介されていて
素晴らしいと思って旅立った


宮津で豊岡行に乗り換え天橋立駅を超え網野まで


橋立も成相山も雲隠れ

この車両は以前どこで使われていたんだろう
床は板張り 座席も豪華

網野駅
ここから丹海バス(ここのバスは1時間乗っても200円)に乗るが1時間10分待ち
ここから先はバスは大体2~3時間に1本 まああるだけでもラッキー
待合所で昼食 以前は非常食用に羊羹を持っていたが最近はプロティンバーが多い

最初の訪問先が「京丹後市立古代の里資料館」だが最寄りのバス停が判らないので
 挨拶を兼ねて宿に電話した 宿は「丹後庁舎前」のすぐ前にあるが
資料館は次の「てんきてんき村駅」が近いと教えてくれた

雨に濡れても「てんきてんき」とはこれいかに
右の山裾に見えているのが資料館


鳥居は資料館の前にある竹野神社のもの この道は参道にもなっている


はじめに
『丹後国は「たにわのみちのしりのくに」と呼ばれ 加佐郡・与謝郡・丹波郡・竹野郡・熊野郡の五群
和銅六年(713年)に丹波国から別れてできた国です
この分国以前の丹波国は 現在の京都府の亀岡市以北全域と兵庫県の氷上郡・多気郡を
範囲とする広大な国でした そして 京丹後市峰山町と大宮町の範囲が丹波郡であったように
丹後国の中心は この丹後にありました このことは 丹後の弥生時代の卓越した遺跡や丹後三大古墳
の存在などと共に 古事記や日本書紀の記事から裏付けられています
つまり古代のある時期 丹後には丹波国の範囲全体を治める「丹後王国」と呼べるような
巨大な勢力の中心が存在したのです
この常設展では 主に「丹後王国」の成立から消滅 そして丹後国誕生までの歴史がわかるように
展示していますので 古代丹後のロマンを感じていただければ幸いです
なお「丹後王国」の時代は分国以前のことですので 本来ならば「丹波(タニワ)王国」と表現
しなくてはいけないところです しかし 現在でも丹波は 京丹波町(京都府)篠山市・丹波市(いずれも兵庫県)
などの地域を指しています
また 京丹後市内にも丹波の地名が残っており 「丹波王国」の表現では混乱しやすいように思います
このため当時の丹波(タニワ)の中心地が 現在の丹後にあったとの立場から 分国以前のことではありますが
「丹後王国」と表現しています』
(以下解説は資料館資料より)


『丹後王国の成立とその後の発展の大きな要因の一つに中国大陸や朝鮮半島からの
先進的文化が日本海を介していち早く丹後に入って来たことがあげられます
そのルートは 北部九州や出雲などの山陰海岸を経由する場合と 大陸や半島との
直接の交流により入って来た場合の両方が考えられますが その受け入口はどう考えてたらいいのでしょうか
日本海側海岸線には砂嘴によって外海と隔てられた潟湖が発達していたことが知られており
そこが港として利用されていたと考えられます 丹後半島では現在も西から久美浜湖・離湖・阿蘇湖が
潟湖として現存している他 福田川河口の浅茂川湖や竹野川河口の竹野湖の潟湖として復元できます
そしてこのような潟湖の周辺にはその地方最大の古墳や由緒ある神社などが分布しており
古代において港として利用されたことにより周辺が発達したことを物語っています
また円山川(兵庫県)や由良川(京都府)など大きな河川の河口域も 海から船が出入り
出来る重要な場所で 円山川中流部の袴狭遺跡(兵庫県豊岡市出石町)出土の船団を
描いた板や由良川(京都府)流域の志高遺跡(舞鶴市志高)で発見された船着場の遺構
からもそれが推測されます』
縄文人の生活
『縄文時代が始まる旧石器時代の遺跡は 今のところ京丹後市内ではみつかっていませんが
1万年ほど前の有舌尖頭器という石製のヤリ先が久美浜町などで発見されています
今から約1万2~3千年前には 永く続いた氷河期が終わり 気候が温暖化し 植物が豊かに
育つようになりました 人々の生活はそれまでの移動生活から定住生活へと変化します
約1万年続く縄文時代の始まりです
市内でもっとも古い縄文土器(押型文土器)が見つかっている遺跡は
約8000年前の裏蔭遺跡(京丹後市大宮町奥大野)などが有ります
続いて約6000年前の松ヶ崎遺跡(京丹後市網野町木津)からは 貝殻で文様を付けた
土器やハタ・タイ・ヒラメなどの魚類の骨やトチ・栗・クルミ・エゴマ・ヒョウタンなどの植物が出しています
又 前期から晩期まで約3000年間にわたり集落が営まれた平遺跡(京丹後市丹後町平)
では 約5000年前の中期になると平式土器と呼ばれる渦巻文などで加飾された特徴的な土器をもつようになります
約4000年前の後期には浜詰遺跡(京丹後市網野町浜詰)が最盛期を迎えます
この遺跡からは竪穴住居跡が発見されています
また貝塚からは シジミ・ハマグリ・アサリ・アワビ・サザエなどの貝類
ボラ・フグ・コイ・クロダイ・スズキなどの魚類 イルカ・クジラ・イノシシ・シカ・タヌキ・サル
などの哺乳類の骨が見つかり 当時の人々が食べていたものがわかります』
丹後王朝の成立
弥生時代後期後半になると さらに規模が大きくな多彩な副葬品が作られるようになります
阿蘇海を見下ろす丘陵上につくられた大風呂南1号墓(与謝野町岩滝)は 青く透き通った
ガラス釧(腕輪)をはじめ11本の鉄剣 13個の銅釧や玉類などが副葬され 王墓と呼ぶに
ふさわしい威容を誇っています ガラス釧は全国で8点しか出土例がない貴重なものです


大風呂南1号墓のガラス釧は 断面が5角形という特徴から インド・ベトナムなどの
東南アジアに類例があるものとされています また鉄製品が大変貴重であったのの時代に
一つの埋葬施設に11本もの鉄剣を副葬する例ははかには見られません さらに13個
の鉄釧は 壱岐・原の辻遺跡(長崎県壱岐市)出土のものと同じ系統の形をしていることから
 日本海交易を把握していた丹後の王の姿がみえてきます

丹後に於る古墳時代の始まり
3世紀中葉に古墳時代がはじまると ヤマトを中心に前方後円墳が作られるようになります
丹後の最初の前方後円墳は 4世紀中葉の白米山(しろげやま)古墳(与謝野町加悦・墳長92m)
と考えれています 白米山古墳は墳丘は二段構築で 葺石はありますが埴輪はありません
中心の埋葬施設は竪穴式石槨(未発掘)ですが 墳丘には多くの埋葬施設があり 弥生時代
からの伝統的な埋葬形態を受け継いでいる古墳といえます
墳長100mの湧田山1号墳(京丹後市峯山丹波)は 後円部が楕円形であること
前方部の高さが後円部よりも遥かに高いこと 埴輪や葺石をもたないことなど
より古い古墳の形態をしめしており 丹波という立地場所からみて 丹波で最古の
前方後円墳となる可能性が有ります
この湧田山1号墳の来た800mに丘陵上には 3世紀後半につくられた大田南古墳群
(京丹後市弥栄町和田野・峰山町矢田)があります 大田南古墳群は 古墳の規模は大きくない
ものの 2号墳からは他に例のない龍紐をもつ中国製の画文帯環状乳神獣鏡が
5号墳からは中国・三国時代の魏の「青龍三年」(西暦239年)という年号がある方格規矩四神鏡
が出土しました
邪馬台国の女王卑弥呼は 239年に魏に朝貢しており その翌年に銅鏡100枚をもらって帰ってきます
丁度その時期が一致するため  いわゆる卑弥呼の鏡の一枚ではないかと注目を集めました(しかし
現在ではこの鏡は日本製ではないかとの議論も起こり結論はでていません)
その語 安満宮山古墳(大阪府高槻市)殻も同じ鏡が出土しています

(上は 大田南古墳5号墳石棺)


丹後王国の隆盛
ー 丹後三大古墳の時代ー

丹後半島では 白米山古墳に続いて「丹後三大古墳」と呼ばれるおおきな前方後円墳
がつくられます
これらは 同時期の天皇陵にに匹敵する規模の蛭子山古墳(与謝野町明石:墳長198m)
網野銚子山古墳(京丹後市網野町網野:4C後半~5C初頭 墳長145m)と この資料館の目前にある
神明山古墳(京丹後市丹後町宮:4C末葉~5C初頭 墳長190m)で この順序で4C中葉~5C初頭に
かけて相次いでつくられました
いずれも墳丘は三段につくられており 全ての斜面に葺石が積まれいます
現在は墳丘上に樹木が生い茂っていますが 古墳がつくられた当時は石の山にみえたことでしょう
また 網野銚子山古墳では 墳丘の段ごとの平坦面や後円部の頂上に全部で2000個以上の
円筒埴輪が立てられていました この円筒埴輪は 上部をおわんを伏せたように作り
その真ん中に丸い穴を開けると言う単語特有のもので「丹後型円筒埴輪」と呼ばれており
三大古墳すべて使われています
墳丘の造り方や形は機内の古墳と変わりはないのですが 埴輪に丹後の独自性が強く表れています
これらの埴輪には 神明山古墳出土の「船に乗る人」や網野銚子山古墳出土の「龍」など多くの
線刻の絵が描かれています
このような巨大古墳の主は 大変大きな権力を持っていた王であったと考えら
「丹後三大古墳」は古代に「丹後王国」が存在したことを示す有力な証拠といえます
また 三大古墳が半世紀の間に次々とつくらていくには 多くの労働力が必要になります
現在の丹後の範囲だけの人口や労働力だけで構築できたとは考えられず 後の丹波国の
範囲全体の力を結集しなければなしえなかったものと考えます
つまり「丹後三大古墳」からは 強大な権力をもち丹波国の地域全体を支配した丹後王国
の王の姿を見ることができます この時代こそが 丹後王国の最盛期といえます

丹後王国の衰退
神明山古墳の次の王墓は 5C前半の黒部銚子山です
しかし墳長が105mと神明山古墳のほぼ半分(体積では六分の一ほど)となっています
そして黒部銚子山古墳以降 丹後では100m級の前方後円墳はつくられなくなり
5C中葉の円墳である産土山古墳(京丹後市丹後町竹野:直径55m)や方墳と思われる
離湖古墳(京丹後市網野町小浜:34m×43m)が次の王墓となります
この時期になると丹後には三大古墳を築いたときのような強大な権力をもつた王は
存在しなくなります
丹後全体を見渡すと 5C中葉には雲部車塚古墳(兵庫県篠山市:墳長140m)
5C末葉には千歳車塚古墳(亀岡市 :墳長88m)があらわれ 王国の中心は丹後から
丹波へと移って行ったものと考えられます
丹後王国の時代は 2C後半の大風呂南1号墳から5C前半の黒部銚子山古墳迄の250年間と
考えられます
丹後国の誕生
奈良時代の初め 和銅六年(713)四月三日に丹波国の五郡(加佐郡・与謝郡・丹波郡・竹野郡・熊野郡)
を割いて 丹後国が誕生します
この時期 712年には越後国から出羽国 713年には備前国から美作国 日向国から大隅国
がそれぞれ分国されています また養老二年(718)には越後国から能登国 上総国から安房国
が分国される等 奈良時代に入り 大和朝廷が地方支配をやりやすくして中央集権体制を確率
するために 全国的に分国をすすめていったものです
丹後国もその一環としてすすめられたものと考えられますが 元の丹波国が非常に広い範囲
であること 国の行政の中心から遠いこと 交通上不便であることなどの理由も
あったのではないかと考えられます
なお 丹後国の行政の中心である丹後国府がどこに置かれていたのかについては
よくわかっていませんが 丹後国分寺(宮津市国分)のある与謝野の阿蘇海北岸付近が 
その候補地としてあげられます


京丹後市の皆さま立派な資料館 ありがとうございました
資料館のすぐ前の竹野神社(斎宮神社)に参拝

前方後円墳の雰囲気が見える





古墳の頂上からは明日行く予定の日本海の「立岩」が見えている
ここは一等地にある古墳だ

頂上の石碑が見える


国道筋に沢山の人影がと思ったら良く出来た案山子

歩いて15分程に丹後庁舎に着く その向側が今日の宿「はしうど荘」

歩いている間は殆ど雨に合わなかってやれやれ 


一人部屋
宿の前の駐車場には10台程の車がある 連休前でも人が多いんだと思ったら
日帰り温泉客の車 600円で夜11時まで入れる
殆どが地元の人だった 次から次に車で来る

早速風呂に入るが5~6人が絶えず入ってくる
早朝6時から9時までは宿泊客だけなので写真もその時と夜はゆっくり浸かった
風呂からの眺めは 立てばいい景色(?)


露天からは「立岩」が見えるが板囲が高い

この目隠しが無ければ湯に浸かりながら最高の景色が見えるのだが残念

自販機で堪らず

夕食は食堂で
今日の宿泊客は夫婦1組と男性1人客3名 計5名

流石に刺身は美味い
もう満足で即寝た

2日目

昨夜 立岩と周辺の遺跡を巡ってそのまま帰ろうと思っていたが
ここからバスで30分ほどで経ヶ岬に行けるんだと思い出し急遽時間を調べ
宿を1時間ほど早く出ることにした
「温泉巡り」の第一回がこの近くの温泉巡りだった その時伊根の舟屋まで来たが
その先の経ヶ岬にはバスの都合で諦めたのだが
今回は反対の方から来て引き返すようになっていたので
リベンジで今回は何としても経ヶ岬迄行きたいと思った

昨日と打って変ったような好天 朝6時半に風呂に入り7時半に朝食

宿を出るとすぐ後ろの海岸に出る
砂浜をざくざく「立岩」まで歩く




海岸から見た「はしうど荘」と露天風呂

聖徳太子と穴穂部間人皇女母子像とじじい
穴穂部間人皇女(あなほべのはしうどのひめみこ)は第31代天皇 用明天皇の皇后で父は欣明天皇
母は蘇我子姉君で聖徳太子の実母である
何故ここにこんなモニュメントがあるのか
間人皇女は当時 都での血なまぐさい政争を避けるためこの丹後の地に滞在し
再び都に帰る時に「世話になりました この地の名前に私の間人をつけよう」と言うが
人々は「畏れ多いこと せめて読み方を退座(たいざ)といたしましょう」と言ったかどうかは知らんけど
では何故 間人を「はしうど」と読むのか NETで調べるも今一づ不明 今流行りのチャットGPT
で調べたが 「これはけんとと読みます」とか「まじん」とか すぐにこれは間違いでしたとエラーを認めるが
もう一度質問してくれと何度も促されるが全く正解は出てこない
正解しそうにもないので「はしうどと読むんですよ」と教えると「それは間違いですかんじんと読みます」だって
人が親切に教えているのに拒否された
飛鳥時代に間人連がいて現在も全国にハシヒトの読みで100名前後の人がおられるらしい
じじいの感では場所的に古代朝鮮語からではないかと思う
そもそも聖徳太子の存在自体が疑問視されているので まあロマンでいいのでは

この像の前にあるのが「立岩」は海岸にそそり立つ高さ20mの柱状玄武岩
この近辺の岩は殆どこの柱状玄武岩のようである
立岩のそばに行くには木製の「てんきてんき橋」を渡る

てんきてんき橋の下の川の河口は立岩にぶつかり海に流れ込む(海と川の色が違う)


浜を横切り丘に上がる


丘の上は「大成古墳群」(6~7世紀)である
上の写真は8号墳から 権力者は死後も別天地で眠るのだ

本当に別天地だ
ここに2聖地くらい買えないかな

ここには13基の横穴式古墳がある その全てが玄武岩でできているという

丘を下り竹野の里に出て「産土山古墳」と「片山古墳」に向かうが位置が不明
うろうろしていると村人に出会う
道を挟んで少し高地に上がると産土山円墳があると教えて頂く 人家が多くあるので遠目からは見れない


片山古墳は機織り会社の敷地内にあるという
塀も無いので勝手に写真だけ撮らせてもらった

次の竹野遺跡は道の駅「てんきてんき村」周辺に点在している

ここで塩ソフトクリームでも食べて休憩 美味かった


やれやれこう周って来たんだ

この川に沿って集落が在った 川・海・山全てが揃い良い所に住んでいるんだ

丹後庁舎と竹野遺跡

丁度バスの時間となった
ここから30分ほど海岸線を走る
港や砂浜もあるが多くは切り立った断崖が多い


経ヶ岬航空自衛隊分屯基地

経ヶ岬
目指す灯台はどうやらこの200mの山頂の反対側にあるようだ 片道1.4km
バス停からも山を登る道が見えている
これは相当覚悟がいる 網野方面行のバスは1時間後に折り返す
最初はそのバスでもと思ったが海岸に降りるだけでも結構きつい
歩いているとこれはもう無理だとわかった
反対の橋立行きのバスは2時間半後に出る これならなんとか行けそう

ここでもきつい 半分だ



やった!!



もう汗だく 天日干し

太陽の光を思い切り受けてバス停まで戻る
天橋立迄1時間40分 海岸線や村々を走る 伊根の舟屋も通る
乗車客は90%外国人 彼らは良く調べている 何でこんなところにと思うことが多い
前の席のヨーロッパからだと思われる老夫婦は翻訳機を翳してバスの案内を聞いていた
思うに全国を周っていて京都府程観光客に優しくない観光地は無い
未だに英語表記や英語の案内すら無い観光地が殆ど
黙っていても客は来ると胡坐をかいているんだ

帰りは天橋立からJRの特急に乗ろうと思っていたら丹海バスの車内放送で
「天橋立から大阪・京都まで直通の高速バスが出ています」というので
スマホで調べたら丹海バスの天橋立停車場から京都行が16時20分にあるという
なんと特急券と座席指定券が要らないので安いし 高速道路を使うので京都にはJRより早く着く
バス停には高速バスに乗る人が20名ほどいた
彼らは事前予約している 運転手に「予約していませんが乗れますか」というと
何席か空いているので行けると思いますと 他の予約無しの3名程の客の席振りをしてくれた
やれやれ
前半は天候悪く 後半は好天 よく歩いたし奇麗な景色や遺跡を巡り
本当に楽しいひと時でした それにしても京都府て広いな~