三十九段 外国人から視た幕末


三冊の文庫本を読んだ
アーネスト・サトウ  「一外交官の見た明治維新」
 
V・Fアルミニコン(海軍中佐) 「イタリア使節の幕末見聞録」

A・Bミッドフォード 「英国外交官の視た幕末維新」
である
いずれも 幕末から明治維新の間に外交官として 滞在していたイギリス人 イタリア人たちで その彼らからみた 当時の不安定な政治情勢とそのもとにある武士階級や民衆の 言動や考え 文化 習慣 生活様式など外人の目からみた 当時の日本の姿が客観的に 生き生きと描かれており
激動期における「徳川慶喜」や「明治天皇」の言動や姿が 垣間見れる
サトウの「一外交官・・」は大正10年にロンドンの出版会社から出版されているが 日本では戦前25年間は維新の生生しい内容記述のためか 皇室の威厳を保つためか 禁書とされてきた
ここには アメリカ・ロシア・フランス・など共同歩調で開国をせまった国の人々の声はないが 当時の欧米人たちには同じような感想をもったと推測される
列強はそれぞれの思惑があるのだろうが 共通しているのは 経済活動の一環としての開国要求である
イタリア・フランスは 当時「蚕」の病気発生で絹製品が全滅状態になり 中国・日本にその原料を求めるのだが 中国産より質の良い日本産を望んでいた
またアメリカはペルーの来航当時は鯨油を採るための捕鯨船の寄港地としたかった 後には中国の石炭の確保の為の寄港地として望んできた。
イギリスは東インド会社を拠点としてまさに世界を範疇にその貿易網の拡大を図らんとした。
ただロシアに関しては 後の大陸南下策をみると 通商だけではなさそうである。

おもしろいのは そんな列強の中でも フランスとイギリスの立場が少し違い フランスは明確に「将軍」派として行動するが イギリスは老獪なのか 最初は「将軍」にもつき 時に従い「天皇」に組していく したがって維新後の新政府の対フランスはきびしいものがあったようだ
当然 新しい国の基本的構造は イギリスやドイツやアメリカが下敷きにされ その時に滞在していた 彼らの知識や 欧米人としての感覚が
彼らと頻繁に交流していた 西郷や伊藤や後藤 木戸 板垣 などに大きく影響したことは間違いない

史実として 大政奉還を知るが 実際「慶嘉」の心中はどうだったのか 慶喜には サトウもミッドフォードも奉還前と後に謁見している
そんな慶嘉の表情を伝えている 
またほとんど知ることがなかった 即位当時 維新当時の天皇の様子も非常に興味あるところである
「天皇は即位時15歳だったが
りりしく 「お歯黒と貴族化粧(志村のばか殿様風)」であっても りっぱだった(ミッドフォードのみ謁見)(参照・1)とある。
強烈な攘夷をとった先帝が維新にあたっておればこの国の姿も違ったものになったに違いない。

日本人があまり書かない書けないことを 我々が外国に行ったときのあの新鮮な感覚 
何を見ても興味深く国家の代表としての威厳さを保ちつつ 驚きと不安と楽しみの中で回顧されている

先の「天皇」「将軍」の謁見の様子
幕末の外国人襲撃(備前事件・堺事件・生麦事件)などに対する列強の対応と 「切腹」として処罰される現場立会いの様子
武士の切腹という「死に様」「潔さ」に対する衝撃の様子
「慶喜」の大阪脱出の内外人の失望と冷笑の様子
西郷や伊藤 木戸 各藩主との会見時の人物評やその様子
江戸の火事や 当時の建物 食事 生活レベルの様子

日本の歴史や習慣 文化意識など筆者の理解度でその評価が変わってくる
特にミッドフォードの日本文化に対する その理解度の深さと感性にはおどろかされる
短期間のうちに相当な日本語をマスターし 書道や和歌などに親しみ知的で造詣深いものの見方に関心させられる

またイタリア人 V・Fアルミニコン(海軍中佐) は軍人らしく 硬くきびしく他国(日本)を批評しているが 今ひとつ認識が定かでない部分があり19世紀の当時のヨーロッパ人の認識のほどが伺える(参照・2)

これまで日本人のいろんな立場の人々から見た幕末物語を目にしたがこれほど客観的に またあまり語られることがなかった歴史の舞台の主役達の生々しい
泥臭い一面を知ることが出来た
総じて 長く鎖国としてあった中で丸で古くからの友人・知人のように礼節と尊敬(一部反対派は暴挙に出たが)の態度で接した当時の日本人の
見識と度量の大きさに関心した
制度的・財政的に破綻しつつあった「徳川政権」に対し 天皇という御旗を掲げ 「外圧」という口実を掲げ閉塞感の強い下層部から地方自治体首長をまで巻き込んで「反政権」として一大勢力に膨らんでいく 薩長を中心とした凛とした日本人が 当時多く出現したということに驚くと共に 羨望の意を感じつつ
完 


参照・1

天蓋の下には若い天皇が高い椅子に座るというより むしろもたれ掛かっていた。天皇の後ろには二人の皇族がひざまついていて、もし必要があれば陛下のお務めを補佐しょうと控えていた。天蓋の外の陛下の前にも二人の皇族がひざまずいていた。天蓋の近くに位置し、高価な緑色の絹地で飾られた一段と高くなった床の上に、パークス公使と私(ミットフォード)が立ち、先導役の肥後候が、そのそばにひざまずいた。片側には通訳を務める外国事務局の伊藤俊輔(博文)が同じくひざまずいていた。天蓋の両側には、二列か三列になって広間のほうまでずっとつながって薩摩、長州、宇和島、加賀その他の大名が並んでいた。その時まで、我々が名前しか知らなかった大名たちの生きた姿を初めて、この目で見たのである。それは我々にとってきわめて印象的な光景であった。・・・・・・
我々が部屋に入ると、天子は立ち上がって 我々の敬礼に対して礼を返された。彼は当時 輝く目と明るい顔色をした背の高い若者であった。彼の動作には非常に威厳があり、世界中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継ぎにふさわしいものであった。彼は白い上衣を着て、詰め物をした長い袴は真紅で婦人の宮廷服の裳裾のように裾を引いていた。被り物は廷臣と同じ烏帽子だったが、その上に、黒い紗で作った細長く平らな固い羽飾りをつけるのがきまりだった。・・・眉は剃られて額の上により多角描かれていた。頬には紅をさし、唇は赤と金に塗られ、歯はお歯黒で染められていた。このように、本来の姿を戯画化した状態で、なお威厳を保つのが並大抵のわざではないが、それでもなお、高貴の血筋をひいていることがありありとうかがわれていた。付け加えておくと、まもなく若い帝王はこれらの陳腐な風習や古い時代の束縛を、その他の時代遅れのもろもろと一緒に、全部追放したということである。

(講談社 A・Bミッドフォード著 「英国外交官の見た幕末維新」より抜粋)
参照・2

19世紀欧州の日本認識
日本国は、主要な三つの島、すなわち本州、九州、四国からなり、北緯31度から42度の間、東経129度から・・・これら3つの島の北東に日本国の属領である蝦夷島がある。
日本の北東にはロシアに属する千島列島およびカラフト島があり ・・・・シナ海には 日本の一藩主の属領である琉球諸島が長く伸びている。
日本の存在は1298年以来 ヨーロッパでは知られていたが 当時にあっては地理学上の知識が貧弱だったために、多くの人は日本をお伽の国ぐらいにしか考えてなかった。
マルコポール・・・によれば フビライはジパング(それは中国語のジパンの転訛であろう)とよばれる、人口の多い極東の島国に対しておおがかりな遠征を企てた。ところが 遠征部隊を乗せた艦船は 恐ろしい嵐に襲われ そのほとんどが海底の藻屑と消えた。
・・・日本の住民はタタール人、あるいは中国人の子孫であり、中央アジアから極東へ向けての原始民族の一環として朝鮮を経てやってきたとするのが一般の理解である。しかしながら 精神的側面から見れば 中国と日本の社会が極めて似ていることは否定できない。文人の言語、象形的な文字、宗教 哲学などは 明らかに共通の起源をもっている・・・・
日本人は仏教を信奉している。仏教は予言者的、福音主義的キリスト教の退廃した形ともいいうるもので 不条理な宗礼と哲学的箴言の混淆である。・・・
4つの主たる仏 すなわち阿弥陀 観音 釈迦 地蔵を振興している。
・・・釈迦は・・・伝説によれば彼は中国に赴いて阿弥陀の教えを説き 宗教書を書いた。この書は孔子の教えに劣らず熱く信仰されている。彼は布教の旅を日本で終え この国の最初の立法者になったといわれる。
・・・仏教にはさまざまな仏と偶像があるにもかかわらず 日本国の政治組織は神道を基礎としている。神道とは神の道往古の君主を神として祭り 祖先への崇拝を旨とする。・・・・
日本の天皇は俗権のほかに神権をも併せ持ち 神の子孫と信じられているために無制限の権威を与えられている。そしてその住居は内裏とよばれている。
・・・この君主はその血統を伝え 王座の後継者を確保するためとされる 12人の女御をはべらせている。継承の規定はわれわれには不明だが、このハーレムにおいては 陰惨な事件が時々おこるものと思われる。日本の絵画には これらの女御たちが君主の周囲に丸く輪を描いて座り、君主はとくに寵愛する女御をじっと見つめているといった状景がしばしば描かれている。
これらの女御たちは乱れた長い髪を肩まで垂らしており 御門もまた 一般貴族や庶民とは異なる 奇妙な形に髪を結んでいる。
・・・・ところで日本では 古い体制に呪縛されて 社会は旧態依然たるままである。血の高貴さも 一族の名誉も すべては遠い先祖によって決まる。
・・・名門の出えなければ栄誉を手にすることも不可能である。ヨーロッパの市民階級のごとく 知的で 聡明で 活動的で 民主主義も宗教に関する原則も受け入れるような階級い相当するものは 日本にはみられない。・・・・
日本の未来についての考え方は極めて宿命論的である。あらゆる心情の発露は抑制される。詩情は奇妙なお伽話からは生まれず 美の極致に達することもない。日本社会の惰性または無気力と何世紀にもわたるその停滞を説明するのは これらのことである。日本がこういう状態から再生するには 現代文明 すなわち科学 産業 鉄道 電信などと接触するだけでは十分ではない。
・・・・・なによりも必要なのは神道の禍を取り除き われわれヨーロッパ人と この異教国民とを隔てている淵を埋めることである。これをなしうるのは 福音書とキリスト教哲学の普及のみである。
・・・・・日本の家族制度は家父長制である。父親の権威は 裁判官 都市 国家などの干渉によって制限されることがあに。しかし 夫婦間の関係において妻が極めて低い地位に置かれているのは嘆かわしいことである。
・・・・日本の法律はただ一人の正妻を許すだけであるが 同時に妾を囲うことも認めている。・・・未婚の娘が 貧しい父親の手で 妾 娼婦 踊り子
歌い女として一定期間 稼ぎにだされることがある。・・・
建築については 日本人は質素な木造の塔以外にはこれといった優れたものを持たない。 日本は絶えず地震の危険があり 都市全体が壊滅する恐れもあるので 石造の大きな建造物は作れないのだといわれる。確かに 江戸や大阪の大名屋敷でも 君候の館というよりはむしろ 小屋や兵舎の集積のように見える。日本人は芸術家を作り上げる情熱的かつ自発的な特性を持っていないといわざるをえない。日本人の間では 美術・工芸は尊敬もされず 奨励もされない。
彫像術もこのような条件下では まるで発達しなかった。今日では 伝説などに語られる奇妙な形をした木製の偶像の複製や 龍や神馬 あるいは青銅製の昔の戦士像の模倣ぐらいしか見られない。そもそも 国民が一度も見たことのない君子の風貌を後世に残したところで それが何の役にたつだろうか?
建設物もまた その外側も内側も極めて単純であって 金銀その他の豊かな装飾などは見られない。
しかしながら 洗練ということになれば それは至る所に見られる。
ごく小さい細工品を仕上げる精密さと巧妙さという点にかけては 日本人は誰からも学ぶ必要がないといえるだろう。日常普段に使われる漆器、銅製品、陶磁器などは日本人のこの能力の証であり ヨーロッパでもこれに勝る物を作るのは困難だろう。
絵画については語るべきほどのことはない。素描は滑稽画の域をほとんど出ていないし 人物の顔には表情がない。ポーズもまるで不自然であつ。遠近法も考慮されておらず 輪郭も正確さを欠いている。それにもかかわらず 色彩の見事さはまことに賞賛に値する。古い昔から 日本人は印刷術および木版を知っていた。日本人が創始工夫した優れた技法の中には ヨーロッパではまだ知られていないものもある。
学術についてはどうだろうか。 学術は体系を欠いた学説。あるいは経験だけに基づく方式の集成にすぎず 人知の進歩に役立ちうる学問とはいいがたい。日本の学者は迷信や空想的思考に災いされて あたかもヨーロッパの昔の錬金術師のようである。
・・・・オランダ船が長崎にやってきた時に・・・・人間の延命法や不老不死の方法が発見されたかなどと 大真面目で彼らは尋ねたのである。
ごく近年にも 上流の一日本人が イギリスで生命保険なるものが設けられたと聞いて 一定の金額に対して何年の寿命延命が保証されているかとただしたということである。
以上は日本の風俗習慣のあらましであるが 結論として次のように述べたい。
日本人の文化はまさに文明状態に達しており そういうものとしては極度に発展しているともいえるが 新しい刺激や もっと旺盛な生命を吸収して西洋の制度文物の水準にまで自らを高めることは不可能であろう。・・・・・・
なお日本からの精神的感化は期待すべきではないとしても 商取引の面からはこの国は富の貴重な源泉となりうるだろう。 この島国では 絹 茶 綿 米などが豊富に産出する。土地は極めて肥沃であり 農業ははなはだ盛んで 小さな土地でも大きな生産力を持っている。金 銀 銅 および石炭の鉱山は効果的に採掘されている。住民は勤勉で賢い。有益な産物は極めて豊富で 住民は他の国に頼ることなく ほとんで自給自足が可能である。

( V・Fアルミニコン(海軍中佐) 「イタリア使節の幕末見聞録」19世紀欧米における日本認識から原文抜粋)