春の伏見桃山を歩く
3月1日コロナ緊急事態が解除され墓参バスも再開され久しぶりに供花
免罪符を得た餓鬼の如くミニ旅に出かける
コロナ以前から京都伏見の「石峰寺」に行ってみたかった
その近辺の由緒をもう少し散見してみると点々とある
今回それを線にして歩いた
10時京阪電車墨染駅 京都特有の狭い通路に人と車と自転車とバイクと園児の散歩集団の間を50m程西に行くと
墨染寺がある
その辻を南下してほぼ寺と隣り合わせに「欣浄寺」がある
境内はオープンになっているが肝心の「伏見大仏」の本堂には鍵がかかり呼びかける人も見当たらない
なんでも事前に予約をしないとだめらしい
「門前雀羅を張る」である
外から渋々ガラス越しにシャッターを押す



正面に真っ黒の大仏様が鎮座
よく見えない
NETで捜すとちゃんと予約して撮影されている御仁がおられた
それを拝借して掲載 スミマセン 感謝


木造の廬舎那仏 寄木造り丈六(5.3m) 伏見の大仏と呼ばれる
これだけのものがよく明治の嵐を耐え抜いたものだ
訪れる人も少なく漆の修復もままならないのだろう


好天にも拘わらず何か陰の気が漂う
木漏れ日を許さない樹木と古井と古池が舞台をしつらえている
お馴染みの小野小町の墓を見て少し気が和らいだ
そうそう間違いなく伏見に大仏様がおじゃった
地名の元になっている墨染寺にも立ち寄った
広く「桜寺」「墨染桜寺(ぼくせんおうじ)」とも言われる

古今和歌集「深草の 野辺の桜し心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け」
ピンクから薄墨のような淡い色になるらしい
今の墨染桜は4代目だそうだ


NETより (右の黒いのは枯れた3代目だそうだ間違えちゃった)
兎に角花には1ヶ月早そうだ
境内には多くの吉野桜が時を待っている
墨染駅の踏切を越えると線路沿いに大和大路が走っている
大和大路は京都奈良間の古くからの道 近鉄・JR・京阪電車と3線が並走している
人や車にとって踏切りの手間は半端ではない
今日のコースはこの大和大路に沿った神社・遺跡巡りとなる
墨染駅と藤森駅の中間あたりに藤森神社が鎮座
「馬」とあるのは毎年5月5日の行事で「駈馬の神事」(神社境内を馬上で逆立ちや横乗りや矢払いなどをして走りぬける)
の為で洒落ではない
創建は1800年前だそうで本殿東座のご祭神は舎人親王
だとか
菅原道真といい昔から日本人は学問を大切に扱っているんだ


伏見は水処ここは「不二の水」
伏見桃山駅のすぐ近くの御香宮には「石井の御香水」がある
伏見の七名水(「石井」「白菊井」「春日井」「常盤井」「苔清水」「竹中清水」「田中清水」)
石井は御香宮境内 白菊井は伏見小学校 常磐井はキンシ正宗 苔清水跡はJR桃山駅傍
竹中清水は黄桜酒造 田中清水は丹波橋清水町 春日井は江戸町
これ以外に城南宮の「菊水若水」大黒寺「金運清水」長建寺「閼伽水」月桂冠「さかみづ」
乃木神社「勝水」
などあるらしい これが温水なら言う事無いのだが・・・残念
伏見(伏水)は地上の川と地下の川の通り道
藤森神社を通り抜け大和大路を北進して数百メートルの角を東にいくと総合庁舎がある
そこで給水と憚り休憩

(右下の赤い看板の絵が総合庁舎)
さらに東進して三叉路を北進すると高速道路の高架が見えてくるその手前で山手の細い道をいくと
JR奈良線の高架とトンネルがある上から 車・電車・人である
少し登りを歩くと比較的新しい人家の群れがある
御陵はその人家に隠れていた
仁明天皇陵の案内板が人家の軒先にあるので「ほんまかいな」と驚いた
実は隣と隣の路地の奥にご陵はあった

まああんなところに家を建てる輩も輩だがおそらく家を買った人達は仁明天皇より今来だろうに
もっと他に住む処は有や無し
*仁明天皇~810年 嵯峨天皇第二皇子。833年淳和天皇の譲位で54代天皇に即位。
ご陵から高速の高架をくぐり抜け東山山麓の密になった家並みを北上すると
いくつもの予定外の寺に出くわす


門が開いていたので恐る恐る入門する
梅が残っている それがなんともいえない芳香を放っている
古人は花は梅としたのはこの匂いかも
『梅花薫帯身』(梅花 薫身に帯ぶ)「懐風藻」
である
寺を出て直ぐの所に文字入石柱がある
なになに「日本最初 歓喜天 深草嘉祥寺」とある
この街道には日本初がやたら出てくる 初物には弱い
これも人家の路地奥にある
おそるおそる入門する

どのお寺も人がいつ訪れてもいいように奇麗にしつらえている
これも修行の一つなんだ
やがて奥深そうな門前に出合う

宝塔寺である
899年極楽寺として創建 源氏物語33帖「藤裏葉」に極楽寺と記されているそうな
鎌倉期に日蓮宗として改宗されているのでなんとなく落ち着きのなさを感じる





今の寺名はこの多宝塔からとられたのかも
立派なものだ
本当に奥深い寺だった
本堂の横の階段から山手に7つの宮がある
そして周辺には塔頭が木々と共に幾宇も山を囲んでいる




ここまで来るとさすがに恐怖心が芽生える
日の光が唯一の救い
下山の途中枝の合間に伏見桃山城を遠望

塔頭も素晴らしい



ケーキと羊羹を抹茶コーヒで食したような心持で出門する
創建から時代が重なると改宗も多くなる
神社仏閣も所詮人の子 金銭が幅を利かす
詰りは神社の「居抜き」
「居抜き」であろうがなかろうが現存して拝観が叶うことに感謝

町内の案内図を見ると人家より寺が圧倒している
以前はこの人家もほとんど寺社域で塔頭だったんだろう
地図上の現在地からさらに北(左側)に向かうと今日のメインテーマの石峰寺である
石峰寺も人家の路地上だった

本堂の左の社務所の叔母さんに拝観300両喜捨
「五百羅漢は撮影禁止どっしゃけ~。参拝者は今お一人どっしゃけ~ごゆっくりどうぞ」と言う

元の御本尊薬師如来は昭和54年の放火で烏有に帰したが
昭和60年再建時には釈迦如来となる
暗くてお顔がハッキリしないが優しそうないい表情をされている
一見清涼寺式の様にも思えた
本堂の右横から裏山へ登る途中に矢印で「伊藤若冲の墓」とある
これじゃこれじゃ


9月10日の若冲忌には多くの人々に囲まれるんだ
ここから先は目撮
なんでもアマチュアのカメラマンが脚を立てて他の参拝客の邪魔になったり
羅漢を傷つけたということで撮影と通路以外の通行は禁止となったそうだ
李下に冠・・・カメラをバックに仕舞う
もらったパンフの裏の写真のスキャンとNETに上がっている写真を拝借掲載

竹藪の道筋に沿って釈迦の生涯絵巻を石像に依って繰り広げられている
東寺の立体曼荼羅には遠く及ばないが庶民の精一杯の工夫である
唯我独尊の誕生仏から 如来 賽の河原 辻説法 涅槃まで
上の写真は涅槃だが釈迦の頭は欠けているようだ
企画・監修 伊藤若冲
ここに鶏でも放たれていたら申し分ないと思う
死に土産が一つ増えた
さて最後の難所
直ぐ隣が伏見稲荷山
昨年までは80%が外国人のお山だったが今は80%日本人
賑わいも嘗ての20%ほど(全て推測)
若いカップルでちょこちょこ中国語や韓国語が聞こえる





3つ辻の茶店の叔母さん
写真を撮ると電話していたのを止めて飛んできた
「写真禁止です」と猊下「すみません」と脱兎
4つ辻の茶店は俳優西村和彦氏の実家「にしむら亭」
勿論撮影NGは無い

洛中の南はずれが一望
右回り左回りで一の宮まで一周の基地かのように多くの人がここにたむろしている
ぜんざい・甘酒・コーヒー・ソフト・うどん
よしソフトと思ったが一周してのお楽しみ
ところがこの1周が半端ではない 騎虎ならず騎狐だったらと願わくもない
一歩一歩足を運ぶ
若いカップルがどんどん先を行く
あの人達は本当に自宅で自粛していたんだろうかと嫉妬する
ソフトクリームを食っとけばと後悔


まあ大変な御利益
強いて言えば「旅行安全」かな
そうか墨染から歩いたんだ
自粛明けでなくても脚に震えがくるような昇降
よく頑張りました
伏見稲荷の駅が白馬の停車場に思える
了
追記
とある日芥川龍之介『芭蕉雑記』を読んでいると「4.詩人」の中に〈さもなくば深草の元政
などにも同じように敬意を・・・・・・。〉
と記してある
地図で場所を捜すとなんと「宝塔寺」の向いの森の中
考古探訪と同じで知らなければ悲しいかな素通りの輩。
NETでは
『瑞光寺は元政庵(げんせいあん)とも称される。山号は深草山。旧本山は身延山久遠寺。
明暦元年(1655年)元政上人がこの地に称心庵という庵を結んだのに始まる。寺地は平安時代初期、太政大臣藤原基経が建立した極楽寺(現宝塔寺)の跡地である。元政は元彦根藩士で俗姓を石井といったが、藩士の身分を捨て妙顕寺日豊の門に入り、この地に建立した。
元政を慕って集う求道者は多く、深草に唱題読経の声があふれる。
元政上人は子弟のために『草山要路』一巻を著して、行学の指針、出世の要旨を述べ求道者の道標とした。
ここに草山派と呼ばれる独特な一門の流れが生じ、後に「草山教学」称される教風が起こる。
寛文8年(1668年)生来病弱当地で示寂。享年46才。
遺体は称心庵の傍に葬られ、竹三竿を植えて墓標に代えたという。
辞世「鷲の山 常にすみてふ 峰の月 かりにあらはれ かりにかくれて」 』
とある。後日に期す。