久しぶりの「つれづれ」である
寒いのと体調不良で自宅保養 じじいにはこれに限る
いつも通り炬燵に足を突っ込んでTVを見ていると
今年の春の京都寺院の公開・開帳情報が流れていた
すると3寺社で「涅槃図」の開帳とあり
2社寺で3月14~16日まで公開 1社寺で4月15日までの公開と有った
「京都三大涅槃図」(東福寺・泉涌寺・本法寺・大徳寺が入ることもある)が一度に観れると言うのは今日が最終日
又其の近くの寺社では日本一大きな「達磨図」と「白衣観音図」も公開とあった
これは家で「達磨」になっているわけにはいかんと桜には早いが研鑽に出かけた
東福寺は駅から徒歩15分 商店街を抜け両サイドに並ぶ幾つかの塔中を横目に見て

通天橋が望める木橋を渡った奥の左にある
いつも紅葉の時期しか来ないので今日は落ち着いている 大量に来る国の人達が減っているせいがあるかも

三門(国宝)も公開されていたが今回は上がらず

本堂に人が集まる

堂内での撮影は禁止なので外からの撮影
涅槃図は1408年明兆による制作
修復後もまだ少し不鮮明な所があるが高さ12m横幅6m

《上写真2枚は東福寺HPより》
天井の雲竜図は堂本印象の作
この景色は1年に3日間しか観れない
沙羅双樹の下で多くの人々や動物が泣き悲しんでいる

すぐ横の方丈も公開されていた 拝観料500円
ここに入るのは初めてである
素晴らしい

東福寺パンフに因ると
方丈(禅宗寺院における僧侶の住居で後には応接の役割が多くなる))の庭は「八相の庭」と言われ
東西南北に四庭が配され「八相成道」に因んで八相の庭「(蓬莱)(方丈)(瀛州)(壺梁)(八海)(五山)
(井田市松)(北斗七星」)と称された
方丈の四周に庭を配するのは東福寺のみだそうだ
そして何よりも素晴らしかったのは明兆の「白衣観音像」《下写真はNETより》

方丈から観る通天橋も良い この辺り 元は桜の名所だったとか
禅寺が建てられ時 桜は人を惑わすと言うことで全て切り倒され紅葉木に代えられたとか
東福寺から御寺泉涌寺に向かう
東山麓のこの坂の辺りから五條清水・山科にかけて焼き物工房や陶器店が多い
清水焼だ

緩い坂が続く 好天で汗が滲む 暫く動かしていない膝が重い

今熊野観音寺の入り口を通り過ぎ坂道を上がる

御寺(みてら)泉涌寺(せんにゅうじ)
の門をくぐると正面の本堂までは「下り参道」になっている
比叡山の根本中堂などもそうだ
この意味を調べたがいろんな説があり今一判らない 出雲大社の「下り宮」は其の筆頭

門をくぐるとすぐ左手に「楊貴妃観音」がある

南宋からの渡来木造 あまりにも美しいと江戸時代より美人祈願で全国からの
女性参拝が多いという 美容整形外科泣かせの観音様


本堂の横に寺の名前の由来となった湧水所がある「泉涌水屋形」 覗くも湧水は殆ど見当たらなかった

そもそも御寺とは何か 1242年に四条天皇の泉涌寺月輪陵に本葬したことから代々天皇の納骨が
続いており 皇室との関係は深い
「涅槃図」は本堂の仏壇の前に広げられている
なんせ大きさは日本一の縦15m幅7,3m
江戸時代の明誉古礀 の作
大きすぎるので天井と足元に3つ折りに展示される

堂内撮影禁止なのでここまで
NETで捜す

《上写真3枚はNETより》
堂内に入り鑑賞するも足元の部分は観難い
こんな大きいものは 部分を裏打ちで継ぎ足していくんだろうか 相当な作業だ
御寺の他の場所の開放は少ない
三好達治の詩に「甃(いし)のうへ」がある
『あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかのあしおと空にながれ
をりふしに瞳をあげて
かげりなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺のいらかみどりにうるほひ
ひさし々に
ふうたくのすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうへ』
とある
ここに言う
み寺ほこの寺の事かと思っていたら どうやら東京音羽護国寺のイメージの様だと
あった 達治は「み寺」という言葉をどう解釈していたのかは不明
下り参道を上がり ここからは下り一方
200mほどに西国三三ヵ所観音巡りの一五番札所今熊野観音寺がある

十数年前に来た時(つれづれ52段)に「ボケ防止」用のお守り布(枕の下に敷く)
を買った 母親に酷く笑われた
(今となって ほんまに効いているのかは定かでない)
昨秋の紅葉時伺った勝林寺の前を通り東福寺駅に向かう
それにしても何で「涅槃図」の公開が3月14~16日に集中しているのあろう
釈迦の入滅は旧暦の2月15日
この事が一番関係すると思うが もう一つに花の開花の混雑を避けているのではと思う
確かに花を愛で寺宝を鑑賞なんて理想だが
ただでも混雑する嵐の前に寺宝をゆっくり鑑賞するのも良いのではないか
JR・京阪東福寺絵駅から地下鉄烏丸線鞍馬口に行きたいのだが
どうも勝手が悪い
JRで京都駅からだと烏丸通りまで歩くか
四条京阪迄だと阪急四条に乗り換えから阪急烏丸で地下鉄に乗り換える
いっその事と逆方向の京阪丹波橋で近鉄線に乗り換え竹田で地下鉄烏丸線の国際会館前に乗り換えれば鞍馬口に着く
地下鉄鞍馬口は地上に上がるとスーパーマーケットがある
此の2階の貸教室には数年間毎週1回通ったことがある
かつて仏像教室に通っていた時に 何度も教室の場所が変わっていた
丸太町河原町の京都医科歯科大の未使用の空き部屋や二条城横の教育会館やこのスーパー2階
仏像制作にはどうしても木くずや音(15名程がノミや木槌で叩く)が出る 木くずは処理できるが音の対策は困難
大概 改装するので、閉鎖するのでの断り理由 仕方がない 出来ただけ幸せ
余談はさて置き
駅から西に15分 堀河通りに面した興聖寺に行く

興聖寺は普段は非公開であるが今年は4年ぶりだそうだ


ここは3月18日まで公開
臨済宗・円通山本山興聖寺(織部寺)は古田織部の菩提寺
徳川幕府への謀反の疑いで一家断絶となりこの寺に菩提を弔った

庭一面 紅葉
さぞかし美しいだろうが非公開(檀家には開放・・・但し今秋は一般開放の予定あり)

ここは本尊以外は撮影許可



正真正銘 禅寺だわ
雲竜も達磨も寺の僧が描いたとか(作者不明)
ただ檀家の墓地に「曾我 蕭白 (そが しょうはく(1730年生まれ)」があるので画風からして
蕭白の影響があるので其の時代の人かもしれない と言うボランティアの案内の方
「達磨」の線はまさしく蕭白である

「降り蹲踞(つくばい)」
深さ2mの降り蹲踞は珍しい 織部灯篭と一本の紅葉

茶室「雲了庵」 織部の院号をとって名付けられた

杏橋幹彦による海中写真を襖絵にした「青波の襖」
襖絵が写真とは
なかなか見ごたえのある禅寺だった
堀川通りを渡り表千家・裏千家家元が並ぶ小川通りに「本法寺」の山門がある

今日のメインである
ここの重文「涅槃図」は4月15日まで展示であるが 普段は「寺宝館」に展示するのは
模写品で今は真筆の展示である 作者は「長谷川等伯」
等伯は30歳で仏画絵師をしていた七尾から上京
檀家であった由縁でこの寺に逗留 多くの仏画を描いた
後に狩野派と双竜となるも等伯を凌ぐとも言われた息子久蔵が26才で夭折や後援者
千利休の切腹などが重なり
其の後10数年年間は筆を折っていた
本法寺の僧日通上人は等伯に「人はいずれ死ぬる者、早いか遅いかですよ。
仕事に打ち込むことが一番の供養になるのではないですか」という
四枯四栄の教えである
(沙羅双樹の木も4本は枯れても又4本生えて栄えるという輪廻感)

本堂


本堂左前の「等伯像」と「光悦手植えの松」
この寺は本阿弥光悦の菩提寺と言う事もあり等伯を強く援護した
本堂の横 方丈繋がりに鉄筋の寺宝館がある


頑丈そうな廊下の奥に鉄扉がある 防湿のため開放禁止である
寺宝館は全て撮影禁止だが寺の方で写真や解説文を用意してくれていた
無知蒙昧者がぐちゃぐちゃ言うより以下資料参照乞う

裏面

寺宝館の1階と2階から図の全体が観れる
図の一番下の犬はコリー犬である 等伯が堺に行ったおり 武家女官が犬を紐に繋いで連れ歩いていた
当時日本ではそんな習慣が無かったのでその光景を見て驚いたと言う

池は蓮を表し 左は日を表す石
合わせて「日蓮」と読む




光悦垣もあるよ
もう満腹いたしました
小川通りを東南150m程に妙顕寺があるので寄ってみた
その途中に尾形光琳菩提所があったが非開放

1820年に興聖寺跡地の泉妙院に墓石を建てたと書いてある
光悦と言い光琳と言い鷹峯琳派のオンパレードだ

じじいが上の写真を撮っていると白人夫婦がほほえんで立っている
翻訳スマホで調べていた
どんな翻訳が出てくるのかな 翻訳できても理解できるのかなと心を残し
その場を去った
其の直ぐ近くに大きな伽藍が見える
今日の最終の地は「「妙顕寺」であった が実は東入ル南下ルではなく東入ル北上ガルの「妙覚寺」に行きたかったのに
自宅に帰って気づいたことだが 間違えて来てしまったようだ
(元 四条大宮にあった妙覚寺は信長の定宿・本能寺の乱の折は息子信忠が宿泊していた
急を聞いて本能寺に駆け付けようとしたが時既に遅し 途中自害したという その後この寺は現在地に移された)
同じ通りに同じ様な名前の寺院が並んでいる しかも大伽藍が
全国の神社の数はコンビニの3倍有るとか 宗教とは げに恐ろしきものかな
一部手違いがあったが短時間で目的は達成できたので大満足である
もうすぐ花の時期 今度は花見となるか人見となるか