特別展「北斎と広重 冨嶽三十六景への挑戦 江戸東京博物館コレクションより 」
中之島香雪美術館 2024.4.19
知人から知らせがあった
パンフを送ってくれた

中之島にそんな美術館があったんだ
『東京都江戸東京博物館(東京都墨田区)が所蔵するコレクションから、
葛飾北斎(1760~1849)の「冨嶽三十六景」全46図(前期・後期で展示替)と、
歌川広重(1797~1858)の「東海道五拾三次之内」や「名所江戸百景」など、代表作を紹介し
、風景版画で双璧をなす北斎と広重、二人の「挑戦」の軌跡をたどります。
併せて、同館が所蔵する広重の遺品や遺言状も展示します。』
とある
これはいかなくっちや
渡辺橋から徒歩5分 国立美術館のすぐそばだ 大阪でも最大のビジネス街のビルの4階
確かこのビルは朝日新聞社とフェステバルホールだ(学生時代から 立て替える前の会場にもよく演奏会などに来ていた)


ビル1階 こんなファミリーマートもあるんだ
NETには
『公益財団法人 香雪美術館は朝日新聞社の創業者・村山龍平が収集した日本、東洋の古美術コレクションなどを
収蔵する美術館として、昭和48年(1973)に開館しました。古美術の優品と時を刻む近代建築の保存・調査を進めるとともに
、広く文化的体験の機会を提供する公益活動を通して、かけがえのない文化財を未来へ引き継ぐ事業を進めています。
重要文化財19点、重要美術品33点を筆頭とする所蔵品は、仏教美術、書跡、近世絵画から茶道具、漆工芸、武具に至るまで
、幅広く各ジャンルを網羅しています
神戸市東灘区御影の香雪美術館(長期休館中)と大阪市北区に平成30年(2018)に開館した中之島香雪美術館において
展覧会を開催し、館蔵品に対する理解を深める機会を設けています。
明治、大正期の文化と建築技法を今に伝える「旧村山家住宅」については、維持管理に努めるとともに、その活用を図っています
。毎年春と秋に「庭園特別見学会」を開催して外観を公開するほか、秋には茶室棟や書院棟、館蔵の茶道具などを使って
濃茶、薄茶、点心でもてなす藪内流の「玄庵茶会」を催し、伝統文化を体験する機会を提供しています。
このほか、設立趣旨である美術文化の向上に貢献するため、優秀な美術系学生を対象とした「奨学金制度」を創設し、
教育・研究活動を経済面で支援しています。公益法人制度改革にあわせて平成22年(2010)11月、公益財団法人となり、
美術を愛し、この国の文化向上を願った村山龍平と歴代理事長の志を将来に伝える体制を整えています。
公益財団法人 香雪美術館』

神戸御影の香雪美術館
又「香雪」とは
『香雪美術館の「香雪」は、所蔵品の多くを蒐集した村山龍平(むらやま・りょうへい)の号です
村山龍平は嘉永3年(1850)、紀州徳川藩の支藩、伊勢田丸の城下(現在の三重県度会郡玉城町)で藩士村山守雄の長男に生まれました。
父守雄は版籍奉還後、田丸城下を去り、明治4年(1871)、大阪に移り住みます。村山龍平は、
翌5年に西洋雑貨を商う「田丸屋」を開業し、数年後には店を大きくして「玉泉舎」と改めました。
西南の役を境に世情も落ち着き始め、明治12年(1879)1月、龍平29才の時に朝日新聞を創刊します。以後、
共同経営者の上野理一らとともに発展に尽力し、日本を代表する新聞に育てました。
西南の役を境に世情も落ち着き始め、明治12年(1879)1月、龍平29才の時に朝日新聞を創刊します。
以後、共同経営者の上野理一らとともに発展に尽力し、日本を代表する新聞に育てました。』
そうなんだ 朝日新聞てそんな歴史なんだ
龍平さんは今で言う孫正雄さんのような人なんだ
会場内は人で溢れていた
撮影はスマホだけ許可されていた

ここから先はうす暗い照明と人に押されてのスマホ撮影 残念ながら手振れ・焦点ボケの写真ばかり
雰囲気だけ味わってね


葛飾北斎の生涯は諸説あるが
1760年に武蔵国葛飾本所に生まれ幼名を川村時太郎 後に鉄蔵という
19才で川勝春章に師事し川勝春郎の画号で浮世絵を出す
生涯の転居回数が93回とも言われているが
画号も川勝春郎以下 叢春朗・群馬亭・俵屋宗理・百琳宗理・北斎宗理・宗理改北斎・北斎時政・北斎辰政・
不染居北斎・画狂人北斎・九々蜃北斎・可候
1805年頃から葛飾北斎と号する
1814年頃に門人の為の手本「北斎漫画」を作成
1820年~33年までは為一と号し「富嶽三十六景」などを制作
1834年75才に「画狂老人卍」と号し晩年を迎え1848年4月18日
浅草聖天町遍照院境内の仮宅で没する享年90
転居が多いのはこれも諸説あるが 家事をせず絵ばかり書いていて離縁されて出戻りの
三女(北斎には2男3女)お栄(画号 応為)と20年の同居中 2人とも家事をしないので
ゴミで絵を描く場所が無くなったら転居する 所謂ゴミ屋敷親子
先妻とは死別で後妻(名前・こと)はゴミ屋敷の為に逃げ出したとか
又不肖の子供の後始末に疲れ 身を隠していた時期もあったとか
私生活はなかなか大変なようだ

会場に設けられた模型 北斎とお栄の様子


北斎「新板浮絵忠臣蔵 初段」 北斎「仮名手本忠臣蔵 初段」

北斎「新板浮絵東叡山花盛之図」

北斎「富岳三十六景 神奈川沖浪裏」


北斎「富岳三十六景 武州千住」 北斎「富岳三十六景 隠田の水車」


北斎「富岳三十六景 身延川裏不二」 北斎「富岳三十六景 甲州伊沢暁」


北斎「富岳三十六景 金谷ノ不二」 北斎「富岳三十六景 信州諏訪湖」


北斎「富岳三十六景 東都浅草本願寺」 北斎「富岳三十六景 駿州大野新田」

歌川豊春「松風村雨図」

歌川春章「三都美人図」

歌川豊春「浮絵七福神寿末広之図」
一方 歌川広重は
1797年の生まれ 北斎とは37才違うが 当然お互いを意識しただろう
江戸八重洲河岸に生まれ本名安藤重右衛門
代々火消しの家業でその家督を得るが絵心が有り15才で歌川豊広に入門
入門から20年ほどに「東海道五十三次」を発表 その後「東海道」シリーズ」「江戸名所」シリーズ
肉筆画・挿絵・戯画・春画など2万点にも及ぶ
1858年9月6日62才で没


広重「東海道五十三次之内 日本橋朝之景 広重「東海道五十三次之内箱根湖水図」


広重「東海道五十三次之内沼図黄昏図」 広重「東海道五十三次之内吉原左富士」


広重「東海道五十三次之内四日市三重川」 広重「江戸近郊八景 玉川秋月」



広重「忠臣蔵大序」 広重「忠臣蔵夜打三本望」 広重「忠臣蔵夜打四 領国引取」



広重「江戸名所百景 日本橋雪晴」 広重「江戸名所百景 目黒新富士」 広重「江戸名所百景吾妻橋金龍山遠望」

広重「名所江戸百景 水道橋駿河台」
大胆な構図 鯉と鯉の間に小さく富士が見える
素晴らしい
三枚だけ絵葉書を買った

北斎「富岳三十六景 尾州不二見原」
この構図が素晴らしい
草野心平の「富士山 作品第肆に『少女たちは うまごやしの花を摘んでは 巧みな手さばきで花環をつくる。
それをなわにして 縄跳びをする。花環が円を描くとそのなかに富士がはひる。その度に富士は近づき。とほくに坐る。』
という詩があるが縄跳びと樽が重なる

北斎「富岳三十六景 凱風快晴」

広重「江戸名所百景 大はしあたけの夕立」
解説ではこの雨は胡粉で描いているとしている
なるほど 立体感が出て迫力がある
ゴッホなどに影響を与えた

ゴッホの模写 漢字が面白い でもじじいより上手いかも
会場の出口近くに以下の表示があった
プロローグ「広重が残したもの」
『安 政5年(1858)
9月6日、広重は62歳で逝去、制作途中の物の多くあるなか、第一線で活躍していた
絵師の突然の死に衝撃と悲しみが広がり、世間では当時流行していたコレラで亡くなったのではないかと噂が立ちました。
けれども、亡くなった日に近い3通にもわたる遺言状が残される点から他の病を患ったものではないかとも考えられます。
逝去の翌月、当時、歌川派の重鎮であり人気絵師でもあった三代歌川豊国の描く広重の「死絵」が発行されました。
品格ある凛とした佇まいの広重の姿が描かれ。豊国の挽歌には「思ひきや落涙ながら」の言葉が添えられています。
広重の死は、三代豊国自身にとってもつらく悲しい別れでもあったことがうかがえます。
「名所江戸百景」や「絵本江戸土産」など多くの作品が途中で、弟子の二代広重を名乗り、後を継いだものも有りました。
広重が大きく発展させた風景画は、海外も含め大きな影響を残します。
しかしながら、広重が亡くなって10年後には、わが国は明治維新を迎えることになります。
もし広重があと5年、10年長く生きられたならば、大きく変革した日本の風景をどのように描き出していたでしょうか。
後世の我々からみても、その死は誠に惜しまれるものでした。』


「広重の死絵と実際に使っていた脇差・煙草入れ・旅枕・袂落とし(首からぶら下げて袂に入れる財布)・掛札(表札の様なもの)」

広重の遺言状
明治のまじかでも「忠臣蔵物」は人気があったことに驚愕
北斎も広重もこぞって描いている
ほぼ同じ時代に多くの有能な絵師が競い合った
現在の「漫画家」にも共通する様に思った
あと200~300年もすれば今の漫画がどのように評価されるのだろう
尚 余談だがNETに広重の「京都名所之内 淀川」があった
恐らく枚方近辺の「三十石船とくらわんか船」を描いていると思う
250点近い展示数と人の多さに圧倒されながらも
楽しい観覧日でした
了