京都「御所西」を巡る
2024年11月24日
西陣歴史の町協議会主催 京都考古資料館・京都市埋蔵文化財研究所共催
の京都御所の西側 西陣近辺の史跡を巡るに参加した

9時半集合で 1組20名になり次第順次出発 最大100名募集で5組まで
じじいは19番目だったので1組目だった
同年輩の男性2人が列の前後について案内してくれる
「今日は普段行かないB級ばかりの史跡ですが宜しくお願いします」とご挨拶されるも
「いやいや こんな機会が無いと来ない所だから楽しみです」の声


集合場所の京都市歴史資料館


➀西陣舟橋跡
今出川堀川の西上角の和菓子屋さんあたりに西陣堀川橋の石碑
引率者の説明『この辺りに足利尊氏の側近 執事高師直(こうのもろなお)の邸宅が有り、その泉殿の下に流れる堀川に舟橋を浮かべ
ていたことに由来するという伝承があります。舟橋とは、船を何艘か並べてつなげ橋にしたものです。


②村雲御所跡
『豊臣秀吉の実姉 智(とも)が息子の秀次などを弔うため、後陽成天皇から嵯峨の村雲の寺地と
寺領千石を拝借し瑞祥寺を建立しました。その後、徳川家康から殿舎を寄進され、此の地に移転しました。
家康や摂政家からの入寺があり、日蓮宗唯一の尼門跡寺院。
昭和36年に近江八幡市に移転しました。』
現在は堀川通りに面した「西陣織会館」などとなっている
堀川通りを下がると「清明神社」が今日も多くの参拝客で賑わっていた
③小野小町双紙洗水遺跡
一条通り戻橋から堀川通りを東に渡る


堀川は もっと水が汚いと思っていたら結構 清水だった
最近ではどこかから蛍の幼虫を買ってきて飼育し「ほたる祭り」をしているようだ
元々あまり大きな川幅の川ではないが 応仁の乱ではこの川を境に西と東に陣を張ってにらみ合っていた

小野小町の遺跡は一般住宅の下
『宮中の歌合せで、小野小町の対戦相手大伴黒主は、小町の歌が万葉集の盗作であると訴え、
草紙を突き付けました。しかしよく見ると加筆した跡があり、小町が庭の鑓水で草紙を洗うと歌の文字が
流れて消えたといわれています。』
いつの時代にも変なおじさんがいるんだ
④諸侯屋敷・一条下り松遺跡

何の変哲もない住宅地だが 多くの歴史が重なっているんだ
『聚楽第の周囲には諸侯大名が堀を構え、地名に名を留めています。
この付近は宮本武蔵と決闘した吉岡の道場があり、裏庭に下り松という松が有り
そこで決闘したと伝えられています。一乗寺下り松は、この一条下り松が誤って伝えらえた
という説があります。』

一条通り堀川東入(ひがしいる)松之下町
⑤旧小川跡
『「名所都鳥」には「小川の水上も今宮旅所の北東に西南に流れる川を二股川と名つく、それより百々橋
の橋の下を通り、小川通の西側の人家の下を音静かに流れてきて一条より此堀川へ落つ」と書かれて
います。昭和38年小川は暗渠になりました。』

小川は家の前を流れて堀川と合流
⑥筑前福岡藩屋敷跡(47万3千石・外様大名)
『最後の藩主黒田長友は、明治2年藩奉還して知藩事となりました。財政窮乏はその極みに達し
藩では太政官札を製造発行しました。政府はその全貌を調査し、廃藩置県の直前に藩が廃止されました。

御所と堀川の間には多くの藩屋敷が並んでいる
今や全く面影が無い
⑦因幡鳥取藩屋敷跡(32万5千石・外様大名)
1石10万円くらいとして325億円 これが多いか少ないかは創造つかない
加賀100万石なら1000億やん
『最後の藩主池田慶徳、将軍慶喜の兄であったため辞官・退隠の意を上書しましたが、山陰道を鎮撫して
鳥取城に来た西園寺公望に留意され、朝廷から命じられ辞官の意をひる返し、廃藩置県まで在任しました』

藩邸に代わりマンションや住宅に
⑧仁風庵・山本家(国登録有形文化財・市景観重要建築物)
『岐阜で白生地屋を営んでいた山本仁三郎は、大正の頃、京都の室町に支店を構えた後、昭和11年に
当地の町屋を買い取り、昭和15年に住居兼迎賓館施設として立て替えました』

⑨富士谷成章宅址
『国学者、富士谷成章は、水川淇園の実弟で、築後柳川藩京都留守居役の富士谷家を継ぎました。』


今は石碑とパーキング
⑩曲直瀬道三・医学舎「啓廸院」跡
『曲直瀬道三は戦国時代から安土桃山時代の医師。道三は号、日本医学中興の祖として、田代三喜、
水田徳本などと並んで「医聖」と称されました。』


現在は「京都ブライトンホテル」となり
隣の駐車場が「啓廸院」跡
⑪皆川淇園弘道館跡
『儒学者皆川淇園(1734~1807)は、医者の家に生まれ、独自の説を打ち立てて私塾
「弘道館」を開きました。しかしその場所は「平安人物斯志」等では、中立売通室町西入る、とされています。



NETによると
『「弘道館」は、学問所というほどの意で、江戸時代には全国に見られました。
京都・上京に位置するここ弘道館は、江戸中期の京都を代表する儒者・皆川淇園(みながわきえん)が1806年に創設した学問所で
、私立大学の先駆とされています。淇園は「開物学」という独自で難解な学問を創始しましたが
、詩文や書画にも優れた風流人で、山水画は円山応挙に劣らずと評されたほどでした。
門弟3千人とも言われ、多くの文化人と親交を結び、また亀山藩や膳所藩など、地方に賓師として招かれました。
弘道館は、この址地辺に建てられた石碑(註)にちなみ、名付けました。また、有斐斎(ゆうひさい)は、淇園の号のひとつです。
有斐斎弘道館(京都市上京区)では、2013年より「琳派」「若冲と蕪村」「百人一首」「源氏物語」
「万葉集」「禅 ZEN」「徒然草」「枕草子」とテーマを変えて公募による京菓子展を開催してまいりました。
2024年1月には「京菓子展」10周年を記念した特別展「一席一果」を開催いたしました。
「京菓子」は、朝廷文化である有職や茶道文化と密接に関わり発展した世界でも稀にみる芸術的な食べ物です。
日本の伝統文化を表す重要なエッセンスが、すべて《50グラムの立体造形》に込められています。』
とある

道路の向こうは「禁門の変の蛤御門」当時は奥の木の辺りにあったとか
室町通と上長者町通・下長者通・烏丸通の四角には現在京都放送やホテルガーデンパレスになっているところは
多くの歴史が重なっている

⑫護王神社
『もとは洛西の高尾山神護寺の境内に清麻呂公の霊舎として祀られ、明治19年、明治天皇の勅令に
より、現在地に社殿が造営され、ご遷座。後に姉君の和気広虫姫も主祭神として併せて祀られました。』


この神社は崇敬者により境内の霊猪像(狛いのしし)が奉納され、「いのしし神社」とも呼ばれ親しまれている
狛犬ではなく狛猪


⑬有栖川宮旧邸
『かつての皇族の有栖川宮家の邸宅で、庭園は作庭家の11代小川治兵衛こと小川雅史氏が平成21年
に作庭しました。有栖川宮家は伏見宮・桂宮・閑院宮と並んで「四親王家」の一つです。』

NETによると
『京都御所建礼門の前に建てられていた有栖川宮旧邸は、まず京都地方裁判所の仮庁舎として使用された後
、1891年(明治24年)民有地であった現在の場所に移築。京都地方裁判所の所長その後、
2008年8月には平安女学院がこの施設を取得。茶道、華道、香道、着付けの実習や市民講座の開催とともに
、他の学術・文化を代表する機関と連携しながら、京都文化と日本の伝統文化の研究・教育・情報発信を行っています。
宿舎として2007年まで使用されていました。』

キリスト教系の平安女学院大学と聖アグネス教会
⑭明治天皇御駐輦所(ちゅうれんしょ)合薬会社跡
明治10年、明治天皇の関西行幸が行なわれ、2月1日には合薬会社を視察しました。
京都合薬会社(アポテーキ)は京都の薬業界が設立した薬局で医師の処方箋による調剤を行ないました。』

工事現場の片隅に石碑が 張幕の間から辛うじて見える
当時は立ち寄ったところに石碑を建てるんだ

歩いているとこんな石碑と説明文が 本当に知らないことが多いこと
やはり信長はどこかの大統領みたいだね
京都府庁正門とその後ろにある文化庁
⑮「滋野井」の井桁
『平安時代初期の公卿で儒者の滋野貞主が住んでいた邸宅に有名な井戸があり、滋野井第
または滋野井泉殿と呼ばれていました。その井桁を管理されていた方が地元に保存を依頼されました
平成30年に元滋野中学校玄関前に移設されました。』

最後まで来ました
ここで解散 狭い地域に多くの事が重なっている場所
霞が関の様な所かな

帰る途中の生麩屋さん 京都は歩くだけで楽しいです
了
