北白川・吉田の遺跡を巡る
2024年10月26日(土)
考古学に関するサイトを巡っていたら下記のパンフが掲載されていた

2016年に「つれづれ103段」の掲載した京都考古資料館の主催の現地講座の誘いである
橿原考古学の会ではなかなか行かない所である
ただ先着順50名となっているので 行っても はい打ち切りですよというのは情けない
少し早めに行って駄目なら近くの観光地でもと思い出かけた

13時に京都芸大の大階段下に来た
10名程がベンチに座っていた いつ雨になってもという天候もあってか
取り敢えず参加はセーフのようだ

時間まで芸大の大階段を登った


係の人から住所・氏名の記入を求められた やはり京都市内の方が多いが
奈良や滋賀の方もおられた
10名単位で引率者が一隊に2名 13時20分から出発した
全部で30名程だったので3隊である
出発の時 引率の先生がこの大階段は「花折断層」
(花折断層は、滋賀県高島市の水坂峠付近を北端として、朽木谷、花折峠、大原、八瀬などを経由して、
京都市左京区吉田山付近を南端とする長さ約46km、北北東から南南西に延びる右横ずれ断層である。NETより)
を利用していますと説明された
今から行く遺跡はこの断層を利用した遺跡が多い
京都考古資料館(長戸 満男)
『比叡山西南の麓、白川の流れがつくりだした扇状地には縄文時代以来、多くの遺跡が残されている。
縄文時代、配石墓や甕棺墓、竪穴住居が発見された上終町遺跡、小倉町別当町遺跡、北白川追分町縄文遺跡、京都大学構内遺跡がある。弥生時代では、水田や水路、方形周溝墓などが京都大学構内遺跡群で見つかっている。 古墳時代には、石室をもつ円墳の池田町1・2号墳、追分町1・2号墳があり、現在は壊されて住宅地になっています。
飛鳥・奈良時代には、回廊に囲まれた堂塔をもつ寺院が建立されていたことがわかる北白川廃寺跡、北白川1~4号窯跡のような奈良時代の瓦窯も築かれていました。平安時代には目立った遺跡がありませんが、古代の埋葬法で作られた鎌倉時代の火葬塚が京都大学の北部構内で発見され、京都市の史跡に登録されています。』
大学のすぐ傍の住宅の裏の崖下が「北白川廃寺瓦窯跡」


やはり 断層の崖を登り窯として利用したようだ
白川通り(断層の崖下)を挟んで多くの遺跡が並んでいる
「上終町遺跡」は京都盆地最古の竪穴住居でこの地位は縄文時代の集落が次々と営まれた

上終町遺跡(縄文時代早期)1994年発掘調査時の写真
スーパーとその駐車場になっている
遺跡は建設の時点で消滅 資料館は遺跡保存で表面の原型をプラスチックで固めたものを
保存している
白河通りを挟んで断層の高さを利用して北白川廃寺が建っていた

寺前の塔は断層で一段低い所に建てられている

1939年の北白川廃寺金堂跡の調査

1996年北白川廃寺塔跡の調査

現在の住宅も段になっている
北白川遺跡群の遺物
京都市考古資料館(玉田 邦英)
『京都盆地は縄文時代の遺跡が多い地域として知られている。その中で、比叡山から流れ出た河川が平地に出て扇状地を形成した北白川から一乗寺、修学院一帯には、特に遺跡が集中している。
この地域に初めて人間の生活の跡が見られるのは、今から凡そ7000年前(縄文時代早期後半)で、北白川上終町遺跡では、楕円形や格子目などの形を刻んだ棒を土器の表面に転がして文様を付けた押型文土器の時代の住居跡が見つかっている。
その後、凡そ6000年前(前期)には北白川小倉町遺跡、5000年~4000年前(中期から後期前半)には北白川追分町遺跡と、南北5キロの範囲で、時代が変わるごとに場所を移しながら、縄文時代の人々が生活していた跡を辿ることが出来る。』

1996年飛鳥時代の集落 小倉別当町遺跡
北白川通りの北側の北白川小学校付近はもはや住宅がびっしり

おっさんがうろうろ あたりの家の調査をしていると押し込み強盗で通報されそう

京大旧東洋文化センター
旧センターの前に貝塚茂樹京大名誉教授の御宅がある(現在は空家)
白河通リは石灰岩の層があり軟弱で調査も非常にやりにくいそうだ
その石灰岩を利用して街道には多くの石仏が祀られていた


吉田神社

大日如来が2体並列 これ如何に



後二条天皇陵

京大農学部正門(有形文化財)




駐車場の一角が芝生になっている
ここは竪穴住居跡

黄葉が待たれる通り

『平安京の北東に位置する吉田山周辺は しばしば古代の有力な人々の葬礼の舞台となった。
その最も手厚い葬法として、遺体を火葬して遺骨を埋葬地に納める一方、火葬地を「火葬塚」
として祭るという方法がある。
1978年この地を発掘調査をした際、二重の方形溝からなる一二世紀終わり頃の施設を発見した。
これを古記録や類似の調査例と比較した結果、火葬塚とみなしうることが明かになった。
この様な火葬塚の実態が発掘調査によって目に見えるかたちで確認されたことは、古代の葬法の一面を
雄弁に伝えるものとして高い学術的価値をもっている。
そのため 理学部の協力を得て、当火葬塚を地下に永く保存するとともに、歴史資料として活用するために
復元をおこなった。全国的にも希少な遺跡として、1983年には京都市登録史跡となった。
なお、塚上の松は、当時の葬礼次第を記した「古事略儀」の記述を参考にして、復元的に植えたものである』
京都大学埋蔵文化研究センター



京大工学部

本部時計台

図書館



文学部陳列館


尾張藩屋敷の石積と見られる

京都は何千年の歴史が重なって 人々の暮らしの跡が残っている
幾重にも重なった文化に敬意を払いつつ覗く楽しみがある
足はパンパンでしたが楽しいひと時 先生方有難うございました
了