久し振りに飛鳥を歩きました。
朝10時近鉄岡寺出発、徒歩2分、あの有名な丸山古墳です。奈良県最大の前方後円墳で墳丘長318m。
1991年12月後円部の横穴式石室内のカラー写真が公開され、翌年には宮内庁から石室の実測調査をして入り口は再び閉じられました。石室は全長28.4m、国内最大であります。
被葬者は不明ですが、「日本書紀」によりますと欽明天皇は571年に亡くなり、檜隈坂合陵に葬られ、
さらに欽明の妃の堅塩姫(きたしひめ=蘇我稲目の娘、馬子の妹)が、612年に娘の推古天皇によって
改葬されたとしるされています。確かに石室には2つのくりぬき式家形石棺があります。
しかし2つの石棺の前後関係や石室の年代観、それに現欽明陵との関係が気になります。
(写真は前方上から後円部を臨む)
昨年の8月丸山古墳のすぐ東にある植山古墳のことが大きく報道されました、今も調査中でおおきなシートで覆いがされていました。
この古墳は東西40m南北24mの方墳です。なぜ話題になったかと言うと欽明と堅塩姫の子供推古天皇とその子の竹田皇子との合装墓ではないかということです。現在磯長の山田高塚古墳と定まっていますが、この両親の眠るすぐ横にまず葬られその後磯長に改葬されたというのもなにかロマンを感じますね。
←(写真は左上に丸山古墳を臨む植山古墳の高台より)
一山超えて特殊な家形石棺がある菖蒲池古墳は、墳丘の痕跡は定かでないのですが、横穴式石室の玄室に2つの家形石棺が置かれ棺内に漆を塗っています。7世紀中ごろから後半の年代だと思われます。
ここでお昼になりました。 コンビ二の弁当(幕の内)を食べました。
さあ次は過去3〜4回は訪れている野口王墓古墳です。被葬者がはっきりしている墓は少ないのですが、これはその少ないももの一つです。
被葬者は、天武天皇が688年に葬られ703年に火葬された持統天皇の骨臓器にあてられます。墳丘は五段構築の八角墳で周囲に凝灰岩の切石を貼ってあり、玄室内は朱塗りで石材は「瑠璃」と記し、その入り口には両開きの金銅製扉があるそうな。
←(写真は野口王墓古墳)
野口王墓古墳から少し西へ歩いたところにある鬼の俎、雪隠は花崗岩を加工した横穴式石槨の底石と蓋石です。
歩いて3分梅田古墳の東のカナズカ古墳は現在は欽明陵の賠塚になっていますが、墳丘の裾と周濠が確認され一辺60mの大方墳であったと思われます。
現欽明陵の平田梅山古墳は、墳丘長約140mの前方後円墳ですが、丸山古墳のように内部の様子はよく判りません。宮内庁の調査では、墳丘の裾まわりの貼り石は、古墳時代の葺石ではなく石の平な面をそろえた飛鳥時代の古墳とするにふさわしいそうです。
近鉄飛鳥駅を横切って5分住宅の中にあるのが、飛鳥を代表する横穴式石室の岩屋山古墳です。石室の石材が美しく加工され、飛鳥の石造物に関わった斎明天皇の陵の候補地であります。墳丘は2段の方墳で1辺40m玄室は長さ4.9m、幅2.8m高さ3.1mに長さ12.3m幅2〜2.3m高さ1.8〜2.2mの羨道がついています。


(写真は岩屋山古墳の石室入り口と羨道と石室内部)
最後に岩屋山から700mの閑ソンとした丘の上に牽牛子塚
古墳があります。


(写真は牽牛子塚古墳石室入り口)
大きな凝灰岩をくり貫いた双室の横口式石郭があり、出土品は、麻布に漆を塗り重ねた夾紵棺の破片と金銅製の棺金具、
七宝飾りの亀甲型金具があります。夾紵棺をもつ八角墳で越智にあるので斎明陵の有力候補になっています。
斎明天皇は661年朝倉宮で亡くなり667年に娘の間人皇女と小市岡上陵に合葬され、孫の大田皇女を陵の前に葬ったと「日本書紀」に記しさらに文武三(699)年に、越智と山科の造営の為「天下の罪有る者を赦す」という記事があり、これが斎明陵の改葬を示すのではないかと思われます。
今日は天気もよく草も少ない絶好の考古学日和、ピクニック感覚であまり難しいことも考えずのんびりぶらぶらいいですね。
でも電車の中はまるでシニア-の遠足のようでした。皆さんお若いですな〜
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