ついにやって来ました。出雲の遺跡の中でも取っておきの荒神谷遺跡です。
1984年7月2日トレンチの一角から銅剣の「なかご」部分が出土、15日に30本、8月11日には128本、30日には358本を発掘しました。それまで過去日本中で発見された銅剣の総数が約300本ですので、このことがいかに驚異的なことかがわかります。
写真のように山間の斜面の中腹に358本がきちっとまとめて埋まっています。
そして翌1985年7月14日写真では右側から銅鐸6個、銅矛16本が発掘されました。銅剣は全て中細型で、弥生中期の終わりから後期初め頃と思われます。後にも出てきます加茂岩倉の銅鐸にも印されていた「×」印が柄の注しこみ部分にあります。
銅鐸は高さ21〜24cm、重さ605〜1121gと小型で、1個だけは横帯文で他は全て袈裟襷文です。
銅矛は長さ69〜84cm、重さ995〜2095gまで差がある。2本は中細形であとはすべて中広形、うち4本には切先部から刃部にかけて、砥ぎ分けによる綾杉文様がある。だれが、いつごろ、なんのために、なぜここに、とそれこそ議論百出ですが、近畿と九州にはさまれたこの地で、かなり強大な勢力の存在をうかがわせます。
祭祀として埋めた、とか征服される前に埋めたとか、その後平成8年に全国一の出土数をほこる39個の銅鐸がでた加茂岩倉遺跡との関連も加わってその謎も深まるばかりです。
卑弥呼が活躍する約200ほど前にどのような勢力だったのでしょう。森浩一同志社大教授によると「出雲風土記」に記載されている出雲地域の全神社と同じ数の剣なので、各神社が一本づつ供出した可能性。
黒岩重吾氏は、大和・吉備連合による強力な圧力があったのでは、と推測。「斐伊川の支流の三刀屋川にある松本一号墳、斐伊川沿いにある景初三年(229)という魏の年号の入った三角縁神獣鏡の出土した神原神社古墳などは、いずれも四世紀半ばの完全な畿内型の古墳で、それぞれ四隅突出型方墳を監視したり、大切な輸送路の川を制圧するような場所に造られている、畿内勢力が古墳時代前期に出雲へ進出してきたしるしであり、それは同時に銅剣祭祀という儀式を廃する先触れでもあたかもしれない」







左の地図でお分かりのように直線距離にして5km足らず、いくつかの谷あいを経て、車で10分程の所に加茂岩倉遺跡があります。駐車場から山道歩くこと10分見上げるよう
な崖の上段から銅鐸39個が発掘されました。













加茂岩倉遺跡は1996年10月14日、農道工事中に発見された。出土した銅鐸は一括埋納としては史上最多の39個を数えた。
多くの銅鐸は工事により掘り出され、遺跡も半壊していたが、さいわい工事関係者の機転により、遺跡には銅鐸を埋めた埋納抗の一部と埋納状態の入れ子の銅鐸二組四個が残されていた。
加茂岩倉遺跡は、島根県大原郡加茂町大字岩倉字南ヶ廻にある。斐伊川支流の赤川が形成する狭隘な盆地状の平野部から北に猪尾川をさかのぼり、さらに枝分かれした狭い谷に沿って西に岩倉川をさかのぼった谷の最奥部にあたる。谷には山からの涌水が流れ、わずかばかりの水田があるだけで、現在の岩倉集落から離れた谷奥の深閑としたところである。銅鐸が出土したのは、谷奥の少し手前の南に張り出す尾根の先端部で、標高138mの急峻な丘陵の中腹南東斜面である。谷底からの比高は約18mである。
天平五(732)年に編纂された「出雲国風土記」の神原郷の条には、その地名の由来として「所造天下大神の神御財積み置き給ひし処なれば即ち神御財といふべきを、今の人猶誤りて神原郷といふのみ」と記述されている。また、岩倉という地名は神が降臨する依代である「磐座」に通じるとされるが、岩倉地内の岩倉大山周辺には、巨岩が散在する。


銅鐸はお寺の釣鐘や風鈴と同じ同じように。一種のカネです。本体が中空で、下端があいたまま終わっている
点も身の上に紐で吊り下げる為の吊り手をそなえている点も釣鐘や風鈴と共通します。しかし、相対する二方 に「鰭(ひれ)」と呼ぶ扁平な飾りが突出している点は違います。銅鐸の身の下端近くを「裾」と呼びます。 銅鐸を下から見ると、裾の内面に突出した帯が一周しています。一条のことが多く二条、まれに三条もあります。 この「内面突帯」は身の内側に吊るした棒(「舌」)と触れ合って音を発するためのものです。 古い銅鐸では、棒と接触した結果この内面突帯が磨り減って低くなっています。ところが新しい銅鐸、とくに 近畿式銅鐸では、全体が大きくなっているのに内面突帯は狭く低く、磨滅のあとはありません。それどころか、 内面突帯を欠く銅鐸すらあるのです。そこで初めは音を鳴らすことが大切だった「聞く銅鐸」が、後には飾り立て て「見る銅鐸」に変わったと思えます。