伏見桃山を歩く
久しぶりの考古学の会参加
橿原考古学の鶴見泰寿先生の引率で 考古というよりも御陵・城跡巡り
豪雨の後の好天のシルバーウイーク
電車は行楽客でいっぱい
今日は近鉄京都線「桃山御陵前駅」のすぐそばにある「御香宮」の門前に集合
「指月城跡」−「乃木神社」−「明治天皇伏見桃山陵」−「桓武天皇陵」−「伏見城」−
「大亀谷陵墓参考地」−「京都教育大学」−藤森神社」−京阪電車墨染駅
まで8kmを歩く
京阪電車「伏見桃山駅」と近鉄京都線「桃山御陵前駅」とはこの距離
その向こうに「御香宮」の赤い鳥居が見える



鳥居の横にある立て札





鶴見先生によると「御香宮は創建年は不詳 神功皇后を主神とし当初は「御諸神社」といっていたが
貞観四年(862)境内から香りの良い水が湧いたため、清和天皇より「御香宮(ごこうのみや)」の名を賜った
慶応四年(1868)伏見鳥羽の戦い時は薩摩藩の駐屯所になる
(「つれづれkanta「六一段」参照)
御香水は伏見七名水の一つ 徳川頼宜 頼房 義直が産湯として使用
昭和60年「名水100選」に認定
本殿は徳川家康の命で建立 極彩色で飾られ重要文化財
表門も重要文化財で1622年徳川頼房(光圀の父)が伏見城の大手門を拝領して寄進したもの」
歩くこと15分 少し山手の「観月橋団地」
「指月城跡(しづきじょうし)」である


この団地の向こう側がすぐ下「宇治川」が流れている
先生「伏見城とは豊臣秀吉が天正五年(1592)に隠居屋敷を建設し、文禄三年(1594)に
本格的城郭に改修したもの(指月城)が始まり
1596年に起きた 慶長大地震で倒壊したために城を木幡山に移した
この指月城跡の所在が見つからず幻の城とされ その存在が疑われていたが
団地の再建時の工事で平成二七年 石垣や堀が検出 金箔瓦が出土しているところから
その存在が確実となった」
(上の写真の白いテントの下が石垣)残念ながら見えない


(発掘時の現地説明会
上は京都新聞・毎日新聞に掲載されたもの)
桃山に向かって歩く
「乃木神社」に来た
途中「光明天皇陵(南北朝時代 北朝の第二代天皇)があった
京都に近いこの丘陵は遺跡が密集しているんだ




先生「大正五年(1916)の創建 陸軍大将乃木希典を祀っている
境内には少年時代に長府で家族と過ごした旧宅を再現したもの
日露戦争時に旅順で司令部として使われた民家を移築したものなどがある
この神社のすぐ上の丘陵が「明治天皇桃山陵」とその隣が「昭憲皇太后陵」と並んでいる

230段ほどの石段を上がると御陵


先生「墳丘は天智天皇陵をモデルにした上円下方墳で(その後の調査で天智天皇陵は上段が八角形であることが判明)
『明治天皇記』によると明治天皇は明治45年61歳で崩御 生前『朕が百年の後は必ず陵を桃山に営むべし』
と話した記されている」
御陵からさらに15分 「桓武天皇陵」に向かう
先生「延暦二十五年(806)平安京の創設者である桓武天皇は崩御(七十歳)
陵は当初山城国葛野郡宇太野(右京区宇多野に定められていたが
周辺の山で不審火が相次いだため 山城国紀伊郡(伏見区)柏原陵に改められた」



先生「しかし桓武天皇陵は平安時代から鎌倉時代にかけて朝廷から定期的に荷前使が派遣され、国家の大事に
際して告陵使が遣わされていたが 朝廷の陵墓祭祀が衰退すると 陵の所在地が忘れられ
江戸時代後期の陵墓探索事業では、元禄年間の修陵で伏見区深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳に決定された
現在の桓武天皇陵は幕末に谷森善臣が紀伊郡堀内村三人屋敷にあった高まりを桓武陵としたもの
しかし13世紀後半に桓武陵が盗掘された時の記録から 山田邦和氏は 明治天皇陵の西北 二の丸跡にあたる
丘陵の頂部を候補地と考えられる」
御陵から少し先にある「元キャッスルランド」にいく
ここで昼食である


昭和39年近鉄がこの一帯を遊園地にし 「洛中洛外図屏風」をもとに鉄筋コンクリーの伏見城を再現
した 現在は廃園となり城には入れない 周辺は伏見区の運動公園となっている
先生「豊臣秀吉は慶長二年(1597)に伏見城(木幡城)が完成すると秀頼とともに大坂城から移る
秀吉は翌年に伏見城で死去し 徳川家康が入城する しかし慶長五年の関ヶ原の戦いの前哨戦で伏見城は西軍に攻められ
家康の留守を守った鳥居元忠が討ち死に 炎上した
慶長七年家康により再建されるが 元和五年に一国一城令により廃城される
この時に伏見城の建物や部材は淀城、二条城、福山城など各地に移築された
伝承も含むが天守閣は二条城 大手門は御香宮表門 唐門は西本願寺と豊国寺
高麗門は浄照寺 藥医門は二尊院総門 日暮御殿は都久夫須麻神社本殿
福山城伏見櫓 など
伏見城の南側二か所に「舟入」の跡が現在も残っており 舟入は南を流れる宇治川と接続している
城下町は大名屋敷・武家屋敷が多く立ち並んでいた
現在の地名を見ると 井伊掃部・板倉周防・金森出雲・筒井伊賀・長岡越中・羽柴長吉・福島太夫
毛利長門などが残っている」
食後桃山から北東にある「大亀谷陵墓参考地」に行く

先生「『大亀谷陵墓参考地』付近からは花崗岩の板材を組み合わせた「石棺」または「石槨」とよばれるものが
出土しており 現在は仏国寺境内に移転され 台石は古御香宮神社に残っている」


これから「京都教育大学構内」を通り「藤森神社」に向かう



先生「この地は明治30年 第19旅団司令部 京都連隊区司令部 歩兵第38連隊が設置された
昭和20年京都地区司令部は終戦を迎えた
昭和32年京都北区から新制京都学芸大学としてこの地に移転 昭和41年京都教育大学教育部と改められ
現在にいたる」
写真は構内に残された「旧陸軍第19旅団司令部」 現在はホールとして使われている
構内を抜けると隣が「藤森神社」


先生「毎年5月5日に藤森祭が行われる 貞観二(860) 清和天皇の宝祚に際し奉幣の神事が始まりとされ
菖蒲の節句発祥の祭りともいわれている
菖蒲は勝負に通じ 勝運の神として信仰を集めている」
ここから10分ほど歩いて京阪電車墨染駅で解散
お疲れさまでした
今日は考古学というより 秋のハイキング感覚
楽しかったで〜す
了