藤原道長大峰参旨道を歩く
「藤原道長(966〜1027年)俗称御堂関白
は寛弘四(1007年)御岳詣(金峯山登拝)を取行した
道長の日記(御堂関白記)によれば 8月2日早朝に平安京を出発
男山で奉賽し 宇治市広野町付近泊
翌日は大安寺 4日は井外堂(天理市二階堂?)5日は軽寺(橿原市大軽町)
6日は壷坂寺泊
7日は壷坂寺を出発し 観覚寺に立ち寄り その後現光寺(比蘇寺)を経過して
野際(吉野町六田付近)泊 8日は雨天・逗留 9日は祇園(吉野山百丁茶屋付近)泊
10日 金峯山登頂を果たし山頂泊
11日に山頂で盛大な法要を挙行し 経筒を埋納 その後下山し 祇園泊
12日は祇園を出発し吉野山金照坊に立ち寄り 野際を経由して水辺(位置不明)
に至る そして14日に平安京に帰省した」 (有史会報 橋本裕行先生より)
橋本先生曰く 帰りがとても早いのは多分水路を使っているのだろうとのこと

この道長の行程の一部 を徒歩でたどる
阿倍野ハルカスから8時10分発の吉野行き急行
橿原神宮前から吉野まで各停になり 「飛鳥」の次が「壺阪山」9時40分着
上の地図では@である
駅から高取城址まで5kmだが城下町沿いにある
小島寺に寄る
「道長はこの道中不可解な行動をとる。壷坂寺に一泊後・・・・なぜか再び道を引き返し
わざわざ観覚寺に立ち寄っている。今、高取町観覚寺に報恩山千寿院小嶋寺があり
寺宝として紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅が伝えられている・・・・
立ち寄りの理由
@観覚寺の開祖真興(しんごお)の供養
A亡き真興の霊に金峯山登拝安全祈願
B金胎両界曼荼羅に長女彰子の男子御懐妊祈願
などが考えられる」(橋本先生説)

城下町の街道筋


庭にある顔面岩

そして城址に向かう
併走する国道のほうが騒がしい
見に行くと 天皇・皇后が吉野に行幸されるとのこと
沿道にたって待った

暗くてよくわからなかった
旧街道に戻り歩く

地図B ホラント遺跡
平成14年農道工事中に発見された石積遺構
飛鳥時代の公的施設または有力豪族の邸宅跡かは不明
道路は少しかさ上げして埋め戻され道路の下に眠る

写真正面の平らになっている山が目指す城址

「城は標高583.9mの高取山山頂に築かれた山城で 平地との比高が日本一高い」
最近流行の「天空の城」の本家である
南北朝時代越智氏によって築かれたといわれる
当時は石垣などが無く簡単なつくりだったが1585年脇坂安冶 本多政武 などにより
石垣つくりがはじまる
麓から真っ白の壁が続き 遠くからみると雪のようであったとか
江戸時代の歌に「巽高取 雪かと見れば 雪でござらぬ 土佐の城」(土佐とはこの近辺の地名)
別名芙蓉城の由来でもある




道は七曲坂を経て 猿石まで一気に歩く
相当厳しい 城の石垣の断片が見えてくる
もう息もたえだえ

本丸から700m離れた途中の道端に地図C猿石がある
先生曰く この城の石垣は周辺の石だけでなく 平地からも持ってきている
古墳の石材なども運ばれたらしい
その中にこれも混じっていたのだろうというお話
さてやっとの思いで地図D高取城址まできた

石垣以外は全て藪の中


ここを下れば吉野川 右手に葛城や二上山など全てが見渡せる
要衝の地である


木がなければマチュプチュの様な石垣
ここでお弁当
さあこれからひたすら下りで11km吉野川まで
壷坂寺の奥の院の岩には多くの磨崖仏が彫られている

その内の1つ地図E 五百羅漢
今回は壷坂寺に寄る時間が無い
ひたすら吉野をめざす


「安産の滝」
きつい下りが続く 膝が笑い出す
なだらかになったところで足が引きつった
両足がこむら返りのように痛む
もう1歩も歩けない
かがみこむと他の人が大丈夫ですかと声をかけてくれる
「ちょっと足がひきつりました 暫く休んで回復したら追いかけます」と言う
実は壷坂寺で2手に別れた ここから先 吉野までバスも電車も無い
自信の無い人は壷坂寺からバスで引返すことになっている
3分の1は帰った
だいぶ迷ったがまあ下りだからと歩いた
必死でついて行くしかない
5分ほど休むとひきつれは治まった
痛くても引きつれさえなければ歩ける
再度のひきつれを気つかいながら急ぐ
幹線道路に出たが団体の姿が見えない
しかし道路の端々に警官が立っている
そうだ天皇・皇后の行幸の帰りなんだ
「すみませんさっき団体が通りませんでしたか」
「そこを左にいきましたよ」
こんな会話を2ヶ所でした
もし今日が行幸の日でなかったらこんなに警察官に出会わなかったであろう
ということは 山の中でどうしたんだろう

国旗を持って村中の人が見送りを待つ

なんとか地図H比蘇寺で追いついた
先生が寺の説明をしているところだった
「現在は霊鷲山世尊寺という曹洞宗の寺院。他にも吉野寺・現光寺・栗天奉寺とも呼ばれた
寺伝によれば聖徳太子創建という」
日本書紀の欽明天皇十四年五月条にも出てくるので日本書紀以前からの寺である
地図Iの「柳の渡し」までは平地をほぼ1直線
足の調子もよく しっかり歩く
やっと吉野川に出た
「吉野川には6っの渡しがあったとされる
なかでも六田の柳の渡は大峰修験中興の祖とされる聖宝理源大師が設けたものと伝えられる
・・・道長もここから船で対岸に渡り 金峯山上を目指したのであろう」橋本先生
全行程16km 足をひきづりながらもなんとか歩いた
近鉄電車「六田駅」から阿倍野まですっかり眠りこけていた
お疲れ様