向日市の遺跡を巡る



数十年前に「長岡京史跡」に行ったことがある
記録が残っていないので改めて来てみた
天気も良く最高の遺跡巡り日 連休といえども遺跡巡りには徹底的に人は来ない
どこに行っても独り占めである
時々 歴史お宅の団体とか学校の生徒の団体にぶつかるくらいである

乙訓郡「長岡京」は向日市・長岡京市・西京区に跨っているが宮域は現在の向日市に有る
阪急東向日駅から徒歩20分ほどの小高い岡の中腹あたりに広がっている


駅から山手に少し勾配の有る道を12~3分上がるとりっぱな向日市役所の建物がある
その前は元向日町競輪場である 現在解体して「アリーナ」(客席のある多目的施設)の建設工事中
市役所の後側に「向日市文化資料館」がある
この一帯を巡る前に知識を得ようという算段

これが狭くて展示数は少ないが なかなか立派な設備と展示内容
あまり期待していなかったが 1時間近く滞在した
掲載写真の多くは展示品から




大極殿と朝堂殿




じじいの食事とほぼ同じじゃ!





この宴会風景は何千年も変わらんな~

桓武天皇の母高野新笠(光仁天皇の夫人)の家系が百済系だとされその後の天皇家の系図でよく話題に上がる
問題にする人もいるが それでは貴方の出生は何ですか 純粋の日本人て何ですか そんな人居ますかと問いたい
ただこの時代の古代朝鮮 特に百済系の人々の政治的立場が大きかったと推測される




すごく丁寧な展示に感謝
 館を出て 市役所を越え 少し上ると住宅街の中に小さい公園がある
これが「五塚原古墳」の入り口
NETによると
『「はり湖池」の西側に見える古墳時代前期初頭(3世紀後半)の前方後円墳です。
全長約91メートル、後円部は直径約54メートル、高さ約9メートル、前前方部はバチ形で、
箸墓古墳(奈良県桜井市)と共通の段築構造が確認されており、
最古級の前方後円墳と考えられます。方部は長さ約墳丘は、後円部が三段築成、前方部が二段築成で、
全体に葺石が施されています41メートル、高さ約4メートルで、埋葬施設は不明です。
これまでの発掘調査で墳丘西端から埴輪の棺が出土しましたが、
古墳にその樹立が考えられないため他所から持ち込まれたものと推測されています。
その埴輪棺がなぜ他所から持ち込まれたかは不明ですが、
4世紀中頃の「妙見山古墳」から出土した埴輪と高い共通性をもつ埴輪であることが判明しており、
「妙見山古墳」から運ばれてきたのではと考えられています。 』
箸墓と同じ時代とは!
現在は崖崩れもあり 立ち入り禁止となっている

木が覆いかぶさり原型は臨めない 箸墓と同時代とは興味がそそる

元来た道戻り 競輪場の縁を周り「向日神社」に向かう
この地域の名前の由来となった神社である
「向日神社」NETでは
『向神社は御歳神が向日山にとどまり、稲作を奨励したことに始まるというが、
そもそもは現在地から北に500メートルの所にある五塚原古墳(いつかはらこふん)の上に祀られていたようである。
養老2年(718年)になって元稲荷古墳の南側にある現在地に遷座した。
火雷神社は神武天皇が大和国橿原から山城に遷った際、当地に火雷神を祀ったことに始まると伝えるが、
継体天皇が乙訓宮を造った継体天皇12年)518年頃の創建ともされる。また、
火雷神社は養老2年(718年)の社殿新築にあたり玉依姫命と神武天皇を合祀している。』とある

そしてこの神社の右横裏手の公園内に「元稲荷古墳」がある
「元稲荷古墳」はNETによると
『京都盆地南西縁、桂川右岸の向日丘陵の最南端に築造された大型前方後方墳である。
古墳域は向日神社内に接し、「元稲荷」の古墳名はかつて後方部墳頂に稲荷社が鎮座したことに由来する
向日丘陵では元稲荷古墳のほかにも大型前方後円墳数基が分布し、これらは「向日丘陵古墳群」と総称される
本古墳はこれまで、江戸時代に大規模な盗掘に遭っているほか、
1960年(昭和35年)からは計10次の発掘調査が実施されている。
墳形は前方後方形で、南北方向を主軸として前方部を南方向に向ける。
墳丘は後方部が3段築成、前方部が2段築成。墳丘外表では葺石が認められるが埴輪列はなく古い様相を示す。
埋葬施設は竪穴石室で、後方部中央に構築される。
この石室は盗掘に遭っているが、発掘調査では残存副葬品が検出されている。
また前方部中央では埴輪片・壺形土器片の密集が認められており、
特殊器台型埴輪片も検出されている。築造時期は、古墳時代前期の3世紀後半頃と推定される。


後円部から前方部をみる 結構高い
桂川一帯を治めた王墓であろう

向日神社にもどり下ろうと思ったら右手に「市立天文館」の建物
覗いてみると13時から45分のプラネタリウムが上映される あと10分ほどだ
1日3回されているようでラッキー こどもの日とあって 親子連れ6名 計7名で始まった

無料と聞けばどこにでも入る じじい
そういえば文化歴史館も無料だった
この街は気前がいい そうか ニデック(元日本電産)の永守さんの出身地だ
街のあちこちに永守さんの名前を冠した施設が有った
何となく京セラの稲盛さんと鹿児島に似ている

冷房が効いていて 丁度 熱中症の予防にもなった
北斗七星(杓)の先の北極星の見つけ方や多くの星座などの解説も楽しかった

これから「長岡京趾」を巡る
神社を下って真っすぐの所に大極殿跡がある



礎石の一部

住宅地に挟まれ 遠慮がちに広場がある
以前 来た時は草茂る原っぱだった だいぶ整備も進んでいる

長岡京 NETによると
『延歴3年(784年)第50代桓武天皇により平城から遷都され、延暦13年(794)に平安京に遷都されるまで機能した。
長岡京の近くには桂川や宇治川など、3本の大きな川が淀川となる合流点があった。
全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替える。そこから川をさかのぼると直接、都の中に入ることができた。
長岡京にはこうした川が3本流れ、船で効率よく物資を運ぶことができ
、陸路を使わざるを得なかった平城京の問題を解消できた。また、造営地の南東には当時巨椋池が存在し、ここも物流拠点として期待された。』
しかし後に此の川の相重なる氾濫が平安京への遷都の原因にもなった
といっても 平安京も又幾多の川の反乱が有り 秀吉などの都を堤で囲う「御土居」などが出現したように
当時の交通インフラからすれば 川や湖など水路の無い都市は考えられない 何時の時代も自然との戦いは大変である
「閤門(こうもん)跡」
この付近から大規模な邸宅跡が発掘され現在も調査中である


阪急西向日駅を右に見ながら線路を渡り
長岡京東第四堂跡に行く
現在は朝堂院公園とシルバーセンターの建物が建っている
「長岡京趾 朝堂院東第四堂跡」

NETによると
『長岡京時代(784年~794年)に国家の政務や儀式を行った場所で、現在の国会議事堂にあたります。
中国の唐時代にあった長安城がモデルといわれ、東西に4棟ずつ、計8棟ありました。
なお、朝堂院公園は、西側の4番目に中枢施設としてあった「西第四堂」と、
朝堂院南門の回廊とつながっていた「翔鸞楼(しょうらんろう)」跡に当たります。』
平安京に移行するにあたり 宮殿に使われている木材や瓦など建築資材などを新都に運び込む間の
仮宮として使われていた
こうして都はヤドカリの様に移転していたんだ
朝堂跡の付近には築地跡もあった


ここから阪急西向日駅は目と鼻の先である



五月晴れの爽やかな「こどもの日」
思わぬ天体勉強も出来 素晴らしい一日でした