百済王(くだらのこにしき)と古代枚方(交野)を巡る


先月の宇治に続いてこの日も朝から曇り・小雨 昼から本格的な雨の中
約9kmの行程
京阪電車片野線宮之阪駅から坂を上り10分にある百済寺跡で集合
今日のご案内は木村理恵先生(橿原考古学芸課主任研究員)


寺跡の横に百済王神社がある

雨の中 130名が集まる





岡の上に寺跡がある

百済王とは

先生『640年代、東方に向けての唐の軍事圧力が高まり、朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)と倭はそれぞれに権力
集中を行ってこれに対応しょうとしました。
百済では義滋王が専制権力を打ち立て、反対勢力を一掃しました。
643年には王子豊璋が太子位を廃され、弟の禅広とともに倭国に遣わされました。
豊璋・禅広の兄弟は、義滋王の公的使節という建前でしたが、その後長らく「質」として
倭にとどまることになりました。
660年、唐・新羅連合軍は百済を攻め、義滋王を降伏させました。
義滋王は唐に連行され、百済が滅亡しましたが、百済遺民は頑強な抵抗を続け、倭国に
援軍を求め、王子豊璋を国王として迎えたいと伝えてきました。倭は三度に
渡って援軍を派遣しましたが、663年白村江で壊滅的敗北を喫し、豊璋は高句麗
に逃亡しました。
「日本書紀」には天智3年(664)3月「百済王善光王らを以て難波に居らしむ」
と記されています。白村江敗戦によって帰国のすべを失った禅広を百済の亡命族として
厚遇し、貴族層を含む多数の百済遺民の結集核となすべく、摂津国の難波に定住させたと
考えられます。
百済王氏と枚方との関りは、禅広の曾孫にあたる敬福(きょうふく)の頃からと考えられます。
敬福は陸奥守であった天平感宝元年(749)に東大寺の廬舎那仏建立にあたり陸奥国小田郡(現在、宮城県
遠田群油谷町)から産出した黄金900両を献上し、その功により従五位上から七階級特進し、
従三位に叙せられ宮内卿に任じられたのち、さらに河内守を兼任したことが「続日本紀」に
記されています。』

桓武天皇と百済王氏

『百済王氏は敬福後も数多くの上級官人を輩出し、奥羽の経営や専門的な学問が必要な官職
などにその手腕を発揮していました。また百済王氏の女性の活躍もめざましく、敬福の孫である
明信が桓武天皇の後宮に尚侍として入り天皇の信任を得たのを筆頭として、複数の女性が女御
などとして後宮に入りました。又桓武天皇は、生母が百済系の高野新笠であることなどから、
帰化人系の氏族を重用したことが知られています。』

桓武天皇と古代枚方

『桓武天皇と百済王氏及び交野郡との結び付きをより堅固にしたものとしては藤原継縄です。
継縄は藤原南家の祖のブレーンの1人とされていますが、その妻は百済王明信で、夫婦
そろって桓武天皇の信任が厚かったとされます。
継縄は交野郡に別業(荘)を有しており「続日本記」延暦六年(787)十月の桓武天皇
の交野行幸に際し、十七日に「以大納言従二位藤原朝臣継縄別業為行官矣」とあり
二十日には「主人率百済王等奏種々之楽」と記されています。』

特別史跡百済寺跡

『枚方市域には東西方向に流れて淀川に合流する三つの河川(北から順に舟橋川・穂谷川・天の川)
があります。穂谷川と天の川にはさまれて淀川にのぞむ標高30mの微高地が交野台地であり、その
ほぼ中央に百済寺は位置しています。
昭和27年に特別史跡に指定され昭和42年には全国に先駆けて史跡公園として整備されました。
平成17年からは再整備に伴う発掘調査がなされ、調査結果が報告書にまとめられています。
百済寺は百済王氏の氏寺として建立されたもので、文献における初見は「続日本記」延暦二年
(783)桓武天皇の交野の行幸に関して「施百済寺近江播磨二国正税五千束」と記されています。
この頃には百済寺が建立されていたことが判ります。また最新の考古学の調査の結果からも、百済寺の創建が
八世紀後半の光仁・桓武朝とされています。
百済寺は二塔一金堂式の伽藍配置で、薬師寺・大安寺・東大寺と似た伽藍配置です。
西塔が東塔と同様に凝灰岩切石を用いた壇上基壇であることや、堂塔のほかにも築地塀
によって区画された寺院の経営にかかわる施設が整然と配置されていたことなど、百済寺
が当時の最新技術を駆使して造営され、中央の官寺と比較しても遜色のない寺院であったことが
明かとなりました。』

禁野本町遺跡

『禁野本町遺跡は百済王氏が河内国における本貫に営んだ町です。


団地が建つ前の調査

『発掘調査により、百済寺跡の伽藍中軸線に続く南北道路とそれに交わる
東西道路が検出され、方形街区を伴う町が本格的に整備されたことが明かになりました。
百済王氏の交野台地への本貫移動の時期が八世紀後半と考えられ、その要員が従来の百済王敬福
の河内任官による説ではなく光仁・桓武朝の成立と山城への遷都などの大きな政治変革期
にある可能性が示唆されます。』

団地に行き当たる なにも見当たらない

粟倉瓦窯跡



『平窯2基が発見され、現在は調査後に埋め戻して公園として現地保存されています。
平窯は二条の畔と三条の火道を有する有畔式平窯で、鎌倉時代のものといえます。
また、遺物包含層から八世紀の土器が出土したことから、粟倉寺が周辺にあったと推定されます。
菅原道真が編纂し歴史書「類聚国史」に佐為寺・百済寺とともに記されてています。遺構は未確認です。


アゼクラ遺跡

『アゼクラ遺跡は交野台地の西辺にあたり、南側には甲斐田川、北側には黒田川が流れ、両川が形成した
谷筋に挟まれいる。戦前には大阪製造所などの軍事施設、戦後には小松製作所大阪工場の建設に伴う造成
により、谷筋が埋め立てられ源地形は不明瞭。
古代から中世の集落地として知られていましたがこれまで横穴墓の存在は知られていませんでしたが
道路整備により2017年に横穴墓4基が確認されました。
出土物は金環・須恵器高杯壺・・鉄刀・鉄釘』

現在も工事中の通行止めの為近寄れなかった



輝きプラザきらら2階展示室






輝きプラザの横が
牧野車塚古墳

後円部

二階の集会室などをお借りして昼食
各自で展示室や車塚古墳を見学

昼から更に雨が強くなる 多くの会員が駅に近いこの場でリタイア

九頭神廃寺(くずがみ)

『九頭神廃寺は縄文時代中期~室町時代の複合遺跡です。
北河内で最も早く建立された古代寺院の一つとして、また高句麗系の
軒丸瓦とが出土することで古くから知られています。
昭和58年以降の実態調査で寺院地が約140㎡となり西門から東方に一直線にのびる道路排水溝
や、南北・東西方向の基幹排水溝・区画溝が確認され、穀物や資材を収めた倉庫群「倉垣院」や寺務を
統括した「政所院」等寺院経営にかかわる施設と考えられるものも確認された。
付属寺院が伴う事例は、地方寺院では例が少ないと言えるでしょう。』



牧野坂瓦窯の途中片野神社に寄る

『1602年豊臣秀頼の再建(国重要文化財)
三間社流造 檜皮葺で細部にいたるまで桃山時代の華麗な様式を良く伝えています。』

牧野坂瓦窯(牧野公園)

『発掘調査で谷筋等が確認されており、平安時代前期の瓦が多量に出土しました。
「西寺」の印をの瓦も出土しているので平安京の「西寺」に供給したと考えられます。』

公園の真ん中に石碑と塚がある
なんと「伝:阿弖流為・母禮之塚」(アテルイ・モレ)とある *モレは副官
アテルイの墓は清水寺の境内だけかと思っていたが何でここなんだと思った


「日本記略」には二人の処刑地は「河内国〇山」とあり その〇が判明していない
諸説あるが ここではこの地に近い宇山町説を採ってこの公園に首塚を造ったらしい

最後まで雨は止まず一番近い京阪牧野駅から帰宅の途に着く
雨の中先生有難うございました

追伸

以前から行きたかった「渚院」が今回 会としては行かなかったので
後日個人で行ってみた
京阪御殿山駅から山手を京都方面に徒歩10分住宅街の中
案内板を頼りに行き着いた

京阪電車御殿山駅


下調べでは近くの保育園で鍵をもらうとなっていたが 保育園も面倒なのだろう
鍵は無く 自由に入れた但し9時~16時までと記している

振り返れば御殿山がある
御殿山神社はこの岡のてっぺんである

土砂崩れの修復か

「渚院」はもっと淀川に近い所にあると思っていたがこの地から眼下の住宅街
の向こう1km先である
川の流れが変わったのだろか 私的にはこの山と淀川の際に院と桜は在ったと思いたい

木村先生『御殿山神社は、渚院跡の観音寺境内に隣接して設けられた粟倉神社の
御旅所を起源とします。文政年万(1818~1830)に、新たに八幡宮を勧請し西粟倉神社
と称しましたが、明治初年の神仏分離令によって御殿山に社殿を造営し、明治三年当地に
遷宮、御殿山神社と改称しました。
御殿山神社の南側で実施した発掘調査では、平安時代前期頃の掘立柱建物などが見つかっており
渚院に関連する施設之可能性が指摘されています。』

これですべて行終え見終えたのでスッキリ