宇治市東部の遺跡を歩く


久しぶりの考古の歩き お昼から雨の予想だが比較的平地で途中で歩行が困難になったら
電車沿いなので離脱しやすそうなので参加した
とはいえ11kmは じじいには重い 見学よりは完歩に重点

JR宇治駅前集合を間違えて京阪宇治に集合時間10時の15分前に着いた
本来なら100名程の会員が集っているはずだが もう一度会報を見る おお~JRだ
京阪宇治からJR宇治駅まで徒歩11分の表示 少し走る
やはりJRだ 先生の挨拶と説明が始まっている 兎に角間に合った

宇治市歴史資料館(宇治文化センター)は駅から25分程だが 途中きつい坂がある 早くも汗びっしょり


宇治は宇治川と巨椋池(おぐらいけ)の河口にあたる
巨椋池は宇治川・木津川・桂川が流れ込み淀川として流れる遊水地である
池は八幡市男山の裾までの大きさだった
しかし明治の頃あまりにも洪水が多いので開拓や水の流れを変えたりと調整が始まる
1940年くらいに干拓事業は終えたが 
じじいが若い頃はこの巨椋池にわずかに残っていて 幾多のため池やそれを繋ぐ川で小船が網をかけていた
 その後 あちこちに団地等が建てられていつしか消滅した
万葉に
『巨椋(おほくら)の 入江響(とよ)むなり 射目人(いめひと)の
    伏見が田居に 雁わたるらし』    柿本人麻呂 


多くの水が有 山が有り(現在では南斜面は宇治茶畑) 魚などの食糧も多く採れたのであろう
古代人たちにも最高の環境だったはずだ


資料館は撮影が禁止
しかし展示物は宇治市内の古墳から出土したもので素晴らしい
今回行く古墳 特に二子山古墳からガラス製品や勾玉などは一級品だ

館の前には移築された「準上り古墳3号墳」がある
時間は早いが昼から雨ということでこの館で昼食

普段は食べない昼食 今日の11kmに備え糖質いっぱい
出発の頃には早くもぽつりぽつりときた

宇治川

市内からの疎水の合流点

宇治神社

宇治上神社
先生『両社は宇治の産土神で延喜式神名帳には宇治神社二坐と記されます。もとは離宮八幡宮と呼ばれた一体
の神社であったのが、明治初めに今の形に分離しました。宇治神社の祭神は応仁天皇の皇子である菟道稚郎子命
(うじのわきのいらつこのみこと)です。
宇治上神社は菟道稚郎子命、その父の応仁天皇、弟の仁徳天皇の三社を祭神とします。
本殿は一間社流造の社殿三棟を覆屋でつなぐ様式で、平安時代後期の建築です。寝殿造の遺構とされる
拝殿は切妻、檜皮葺で鎌倉時代初期の建築です。両方とも国宝に指定されています。』
宇治はこの菟道からきています
うじがわくなんて何故天皇の皇子がこんな名前を付けられるのか 古代の人の感覚がわからない

雨は本降りである

「二子山古墳」
資料館に立派な勾玉やガラスなど出土した古墳だ
先生『仏徳山から北に延びる低丘陵(通称二子山)上に南北に隣接して築かれた円墳2基の総称です。
北墳は直径40m、高さ4,3mの円墳です。円筒埴輪・家形、盾形、甲冑形の形象埴輪片が出土
副葬物からみて5世紀前葉の築造と考えられます
南墳は帳っ系34m高さ4.3m。
副葬品亜h武器・武具類の多さが特筆されます
他に鉄製農耕具類(手斧16、窯25、鍬1,手鎌4、鉇16、鑿(のみ)17、錐(きり)9など
副葬品からみて5世紀後葉の築造です』
今は柵で囲まれては入れない

「大鳳寺跡」
先生『東に金堂、西に塔を配する法隆寺式伽藍配置であること、飛鳥時代の川原寺の創建瓦を系統を引く川原寺式です。
創建時期は7世紀後半と見られます。13世紀後半には廃絶したとみられます。大鳳寺積跡の西にある西隼上り埴輪窯は
5世紀後葉の窯で動物埴輪と円筒埴輪が出土しています。』



「隼上り古墳2号墳」
先生『更に北の尾根へと進み大鳳寺山を超えると京滋バイパスが東西にありなす。隼上り古墳は
この京滋バイパス工事に先立ち調査されたもので、3基の横穴式石室から構成されたものになります。
3号墳は資料館の横に移築された物です。1号墳は直径23mで須恵器・土師器・長頸鏃が出土。
2号墳は直径30mの円墳。出土品は金環4・銀環4・刀剣3・鍔2・鉄鍬10・須恵器
3号墳は径約12mの円墳。金環2・銀環2・須恵器・鉄釘などが出土
1号墳と2号墳は6世紀第三四半期 3号墳が6世紀第四四半期とみられます』
雨がびちょびちょ

「隼上り瓦窯跡」
先生『この瓦窯跡から出土した瓦には、軒丸瓦、丸瓦、平瓦が有ります。軒丸瓦はA~E迄の5形式がありました。
A~Dまで高句麗系の文様で、Eのみが百済系文様でした。A~C・E形式は飛鳥の豊浦寺瓦と同范であることがあきらかとなり
これらの瓦が同寺へ供給されたことがわかりました。つまり隼上り瓦窯は、豊浦寺の創建瓦を供給する目的で築窯されたのです。』

京阪電車の線路を超え

「岡本廃寺」
日皆田公園の片隅には塔心礎とみられる石材が置かれている
周りは閑静な公園となっていて寺の痕跡は何もない
先生『昭和60年の調査で、基壇建物、掘立て柱建物、柵列、溝、土坑が検出されました。基壇は
東西16.7m 南北6mの規模。金堂は火災により倒壊したと考えられる。
焼失時期は8世紀末と見られます』

「京大宇治キャンパス」

更に北に進むと京都大学宇治キャンパスの南側の水田の中に「瓦塚古墳」がある
先生『昭和62年の調査では2段築成の円墳で直径30mを測ります。墳丘には葺石が認められ、
格段の外周には一部朝顔形埴輪を含む円筒埴輪列が巡ります。
鉄製馬具・長頸鏃・玉類・王杖形金銅製品などが出土しています』
キャンパスでトイレを借りて
いよいよ最終目的の「二子塚古墳」に向かう
先生『宇治川東岸の微高地に位置する二子塚古墳は全長112mの大型前方後円墳で、大型古墳が認められなかった
この地域に突然現れたといっても過言ではありません。
古墳は大正時代の土取りによって、後円部のほとんどが破戒され、さらに後円部主体部の石室も破戒
されました。南北に主軸を鳥、南面する三段築成の前方後円墳で、2重の周濠をもちます。全長112m 
後円部径61m、墳丘には葺石があり、憤頂部とテラスには円筒埴輪列が巡らされていました。後円部の
埋葬施設は完全に破壊されていましたが、横穴式石室であったと思われます。
構築時期は墳丘中に混入する須恵器の時期などから西暦500年を前後する時期と推定されます。』
そして二子塚古墳の石室の材料では無いかと推定される石をを庭石としている墳墓横の「西方寺」に先に行く

石室の材料と思われる石群



流石に大きい
周濠の2重は認められなかったが 後円部の底が見えるまで金儲けの為 土取りをしたんだ
被葬者は恐らくこの地域の統括者だろう

久方の参加で少し不安だったが雨でも11km歩けたことに安堵
次回も是非参加したいものだ