弘川寺と「磯長谷」「一須賀古墳群」小野妹子墓を巡る
考古の会で「磯長谷(しながだに)と一須賀古墳群(いちすがこふんぐん)を巡るという月例会があったが
コロナ状況や体調不良で行けなかったので個人で行ってみた

行程表の「河内」と「小野妹子墓」は個人的興味で付け加えた
富田林んはほとんど来たことがない
子供の頃PL教団の花火大会に来たことがある様な記憶がある
又考古の会で叡福寺や近つ飛鳥博物館にも来たことがあるが殆ど記憶を
失いかけている
近鉄阿倍野から吉野行急行に乗り古市で河内長野行きに乗り換え富田林駅に着く
「つれずれ115段千早赤坂・金剛」では南海電車だったのでこの駅には来ていない


駅前からPL教団のシンボル「大平和祈念塔」が正面に見える
どうも世の中に未だ祈念は届いていないようだ

今回日曜日にしたのはバスの本数が平日より多いからである
しかし じじいが興味ある所は休日でも殆ど人が来ない

金剛バスは千早赤阪方面に向け住宅街から山裾に20分ほど走る
終点「河内」で降りるとすぐに「弘川寺」がある

なかなかりっぱな寺である
少し山を登ったところに今回の目当ての「西行法師の墓」がある

西行堂


73歳2月まで生きたんだ
『願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ』 西行
西行の多くの歌や書を見る事が出来るが個人情報は余り多くない様だ
突然の出家も失恋説や厭世説やいずれにせよ脱サラである
結婚して子供が出来すぐに強引に出家したとも言われている
良寛や西行や長明や一休など出家してどうして飯が食えたんだろうか
托鉢にしても食料事情が悪い時代に多くの人から食料をもらっていたんだ
本人は納得の上だろうが周辺の者はかなわんなやろな

ここは紅葉が良いようだ

期間限定の「西行記念館」に行く

「西行法師像」等身大の楠一木彫
おおなんと!松久宗琳先生の作

好きな歌に「年月をいかでわが身におくりけん 昨夜の人も今日はなき世に」
(昨日は元気で生きていた人も今日はもう亡くなっているというはかない世に、自分はこの年月をどのように過ごして来たことであろうか。)
「世の中を思へばなべて散る花の わが身をさてもいづちかもせむ」
(世の中のことわりを思えば物みな散る花のよう、そのようなわが身の果てをさてさてどこと考えればよいのか。)
満腹しました
バスは1時間後に出る 富田林駅に戻る
駅で30分待って「近つ飛鳥博物館」まで行く
ここから先は考古の会の平井先生の解説も交える
平井先生『近つ飛鳥とは「古事記」履中天皇記にみる「近飛鳥」に由来するもので、「日本書紀」履中天皇即位前紀にも当地域に
「飛鳥山」の名称をみます。古代には鉢伏山の北側を含めて安宿郡とされており、「飛鳥」の字名は上ノ太子駅北側の
飛鳥戸神社(あすかべ)を中心に今も残ります』
『古墳時代後期から飛鳥時代にかけての太子町と河南町を含む南河内一帯が大和の飛鳥と同じく多くの先進文化が華開いた土地』

平井先生『一須賀古墳群A古墳群O支群の立地する2本の尾根の間を通り抜けると大阪府立
近つ飛鳥博物館がある。博物館の駐車場及び建物の位置にあるのが一須賀古墳のⅠ支群です。
5世紀末から7世紀初頭にかけて古墳の造営を継続します。
現在23前後の支群、総数260基程が確認されており、平尾山古墳群や高安千塚古墳群などとともに
河内を代表する群集墳です。
Ⅰ支群~一須賀古墳の特徴として最も注目すべきは、渡来系要素の多さです。特にⅠ支群では朝鮮半島の百済地域
より伝わった横穴式石室の初期事例がまとまってみられます。
それは韓式系土器や木簡に使用された鉄くぎ等の出土から見て取れます。
B支群は6世紀前葉から7世紀前葉まで造墓活動が続きます。
ここにおいても朝鮮半島系の遺物が出土します。ミニチュア炊飯具が多く出ている点は特徴だと言えます。
D支群~B支群の南側の尾根に立地するこのD支群は、盛行時期や石室携帯の変遷過程等にB支群殿共通性が高く初葬に石棺
を用いる古墳が一定数みられる点も同様です。
WA支群~WA1号墳はD4号墳を優にしのぐ群内最大級の石室規模を誇り巨石を用いた両袖式石室の中には組合式
家形石棺を納めていて畿内の有力首長墓に匹敵するもので注目すべき点であります。』


門から博物館迄も結構歩く
山全体が古墳なので1日かかっても歩けないほど
博物館迄の途中の古墳を見る




古今東西 人間富と権力を持つとどこも同じように光物に興味が湧くんだろうな


博物館に来た
これも安藤忠雄さんの作
先日の大塚国際美術館や昨年12月の山鹿の装飾古墳博物館もそうだった
流石に見やすい設計






そして富と権力をもつと傭兵して自分の周りを固めるんだ
そしてひどい奴は他の者を攻めて殺して奪うんだ






見ごたえがありました
さあここから先が歩行一本道
まず1.2km先の葉室公園に向かう
真夏日の太陽

この辺は河内ワインの産地

葉室古墳
『墳丘は長方墳で東西75m南北55m 2段築
東西に2つの石室を持つ双方墳と推定される』

こんなに沢山の遺跡があるんだ
何処に行くもなかなか大変だ
取り敢えず推古天皇陵に向かう

山田高塚古墳


『東西方向一辺が66m南北一辺が57m 墳丘は3段構築
埋葬施設は南向きの横穴式石室が東西に4mの間を隔てて並んでいると考えられる。近世の記録には
東側の石室には2つの石棺が納められていた様子が記されています。推古の墓については
「日本書紀」によるとはじめ竹田皇子の墓に葬られたとされ「古事記」によると「大野岡の上にありしを後に
科長の大陵に遷す也」とされています。
そして「延喜式」では「磯長山田陵」とされており、現在山田高塚古墳がこれに当てられています』
この墓にあがると後ろに「二子塚古墳」がすぐ隣200mの所に見えている


二子塚古墳
平井先生『墳形は長方形の下段に2つの方形段をのせた「双方墳」とされる
長辺69m短辺35m 7世紀」中頃の古墳としてはひときわ大きな古墳と言えます。
近年の調査の結果は玄室4,6m 両袖式横穴式石室に極めて短い羨道が取りつきそれを人頭大
の礫で閉塞していること玄室内部には部分的に漆喰が残存することが確認されています。
山田高塚古墳に近いこともあり被葬者と深い関係にあった有力者と推定されます』

「二子塚古墳から見た山田高塚古墳」
ここから1kmほどに科長神社がありその横の階段の上に「小野妹子」の墓がある
思い足を引きずった
農道に囲まれどうもわかりにくい 80歳位のお百姓さんに聞くと抜け道を教えてくれた
何故 神社は坂の上にあるんだろう
住宅地をぬけると神社があった


神社の横にある階段のてっぺんに墓が鎮座

この階段も「EGETUNAI」



日本の文化向上の為によく頑張っていただきましたと合掌
次は最後の訪問地叡福寺まで一直線
と思って歩いている内に案内板を見ると寺からどんどん遠くなっている
どうやら方向を間違えたようだ
結局1.5kmほど方向をまちがえたので往復3km近く徒労
なんとか叡福寺にたどり着く






叡福寺北古墳
平井先生『墳丘は3段築盛の円墳であり直径は南北43m 東西53m
主体部である横穴式石室は明日香村岩屋山古墳との類似性が指摘されています。
その次期は7世紀中葉以降とされていますので叡福寺北古墳が聖徳太子墓だとすると
太子の没年からは数十年の開きがある事になります。
引き続き慎重な検討を要する課題だと言えます』
ここから近鉄上ノ太子駅まで歩く予定だったが何と2kmもある
こえはたまらんとバスの時刻表を見ると上ノ太子駅まで1時間待ち
反対の「貴志駅」までなら20分待ち
やはりバスは楽ちんやね~
疲れました
でも楽しかったです
了