上町台地を歩きながら古代宮都について考える
コロナ禍も落ち着き取り敢えず緊急警報が解除され秋の気配を感じた久しぶりの有史会である

上図は1800年ほど前の大阪地図である
西は「茅淳(ちぬ)の海」現大阪駅など市街は殆ど海中である
上町台地を挟んで東は河内湖である
難波津は台地がもう少し早い時期の先端(黄丸)辺りで 今回オレンジの線のように
台地の谷筋(桃谷・清水谷・細工谷)などにある遺跡を巡った

難波津推定地野今はマンションに囲まれた北大江公園に10時集合である
ご案内は鶴見泰寿先生
参加者は120~30人
先生「『難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花』という難波津の歌は仁徳天皇治世の繁栄を願って
王仁が作ったとされます。この歌は競技かるたの試合冒頭で必ず読み上げられます
難波津はヤマト政権直轄の港でした。『日本書紀』継体六年1一二月の記事には、ヤマト政権が設置した迎賓館、難波館
が初めて登場します。また継体の子、安閑天皇は安閑元年十月に難波屯倉を設置しました。」


大阪府庁を通り大阪警察本部前に来る
その前がNHK大阪支局と歴史博物館がある
この周辺一体が前期・後期難波宮遺跡である


火災で焼失したとされる前期難波宮内裏西方官衙跡の掘っ立て柱跡が周りに沢山ある
この辺りのことは「つれづれ四十八段」に掲載している
信号を渡った前に後期難波宮が広がっている

前期難波宮の基壇と後期のそれは同一基軸の線上にある
前期の基壇は地中に埋められたままで上の塔は平和祈念塔らしい
どうも前期と後期の位置関係がもうひとつ掴めない仁徳天皇時代から開発が進み
履中・応仁・継体・安閑・欣明・敏達・推古・孝徳・持統・聖武と多くの天皇が関わった
それに大阪城や石山寺やと兎に角ここは軍事的にも政治的にも経済的にも非常に大事な
場所であることだけははっきりしている



上町谷窯が難波宮跡南方の発掘調査で南に下る急斜面から初期須恵器を焼成した2基の窯が発見された
真田丸は真田幸村が清水谷・空堀を背景に大阪城の出城として慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の時に築いたもの
東西280m南北270m

この周辺には多くの学校や寺が多い

その中の三光神社境内には幸村の銅像と「抜け穴」とされたトンネルがある



真田丸公園で昼食(12時15分~13時)
細工谷遺跡(百済尼寺)
先生「上町台の南東には古代の百済郡が置かれていました。この辺りに勢力をもった百済王氏は百済義慈王の子であった善光
を始祖とする氏族です。善光は百済の人質として日本に滞在していましたが百済滅亡後に百済王氏の姓を賜り日本の官人となりました。
奈良時代後半に河内国交野に移住するまでこの辺りが本拠地とされる」
又大阪市のホームページでは
『 細工谷遺跡は難波宮の南方2km弱にあり、推定朱雀大路跡の東隣に位置する。平成8年度の発掘調査によって、難波京内で全く空白であった地域に「百済尼寺」という古代寺院の存在が確認され、全国で初めて和同開珎の枝銭が出土した。
枝銭の出土した溝からは、和同銭をはじめとする多量の銅製品・鉄製品、さらに銅板・銅塊・鉛板・方鉛鉱などの金属器素材や鉱滓類といった金属加工に関わる遺物も多量に見つかった。また、別の遺構からは府下で初めての出土となる富本銭が見つかっている。さらに、尼の父の名前を記した木簡や、「百済尼寺」の存在を示す墨書土器の出土が注目される。これらは古代仏教史や難波地域における渡来系氏族のあり方、銭貨の鋳造と流通といった、重要な課題に直結する資料であるといえる。』
とある
しかし実際に歩いてもどの辺かは不明だった
続く堂ケ芝廃寺(百済寺)も場所は不明だった
先生「かつて基壇跡が残り瓦が散布していました。石田茂作氏によると現在の豊川稲荷を祀る禅宗寺の境内に入ると所々布目瓦片
を見ると記しているというがその基壇も最近では少し時代が違うようです」
まあこの近くに有ったのだろう

(禅宗寺境内)
摂津国分寺跡



(少し歩き疲れました)
ここからさらに歩いて15分最後の四天王寺に行く


四天王寺に関しては説明は要らないが今の建物は昭和38年(1963年)の再建らしい
どうも寺全体に重厚感が無いと感じるのは何故だろうか
会としてはここで解散
家路に着く途中地下鉄を乗り継いで「御堂筋本町」に来た
地上に上がると御堂筋のグリーン帯にぽつりと石碑がある
何かのついでに一度見たいと思っていた
「芭蕉終焉の地の石碑」
あったあった!!
日曜日が幸いして車も少ない


ドナルド・キーン氏『芭蕉終焉の地<御堂>』の中で
「芭蕉は、51歳の人生を終える少し前、元禄七(1694)年9月に大坂を訪れました。
此道や行人なしに秋の道
芭蕉のこの句には、孤独な旅人の何とも言えないような気持ちがにじみ出ています。この道は自分の一生の道であり、俳句において
自分が歩んできた道です。ところが、今はこの道を行く人はいない・・・・
しかし、その2日後には、またこう読んでいます。
秋深き隣は何をする人ぞ
宿の中で音が聞こえます。その人の顔は分からない。でもその音を聞いて。どういう人だろうかと考える。
他人への興味の素朴な表明です。やはり芭蕉は世捨人ではなく社会の中に生きる人でした。そして・・・・
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
突然の病に倒れた芭蕉の、これが最終吟です。病床でも枯野俳句への思いは未だとどまらないのです。
しかし10月12日(陰暦)、南御堂に近い「花屋」の離れで、彼は門人たちに見守られながら亡くなります。」
了