京田辺市南部の遺跡を歩く
今日は橿原孝研の吉村先生と途中から同志社大学教授の若林邦彦先生のご案内もあるというので楽しみである
吉村先生「京田辺市は旧国名では山城国の南部にあたり、河川流域では木津川の左岸に位置する。
」

JR三山木駅と近鉄三山木駅はロータリーを挟んで同じところにある
総勢120名程が集まった
駅のすぐそばに
真言宗寿宝寺がありその門前に「和銅四年設定 山本驛旧跡」の碑がある
山本駅は旧山陽道の駅家で『続日本記』和同四年(711)正月二日条に「始置亭都亭駅、山背国相楽郡岡田駅、綴喜郡山本駅
河内国交野郡楠葉駅」との記載がある
駅はおおよそ三山木駅近辺にあったと推定される
上写真左端の鉄塔の向こうの小高い丘が飯岡丘陵
鉄塔脇の下辺りが『飯岡横穴古墳』
「花崗岩の岩盤を掘削した南に開口する横穴墓 かっては2基存在していたようだ昭和53年に調査が行われ羽子板形の平面形
かまぼこ形の天井形態をもつことがあきらかになる
玄室は両袖式 長さ4.1m幅1.7~2.3m 高さ約1.5mの規模 6世紀後半~末の構築
丘に上がっていくと咋丘神社(くいおか)がありその暖斜面に『トヅカ古墳』がある

径20m 高さ3.5mの円墳
墳丘には埴輪・葺石がみられ竪穴式石室 長さ23m弱幅0.7m 高さ0.9m 明治7年の調査で銅鏡3面
勾玉2、菅玉・小玉多数・鹿角装刀剣 杏葉 鞍金具が出土古墳時代中期(5世紀後半)と推定される
出土品は京都国立博物館に所蔵されている
少し北西に上がると
かつて『東原古墳』があった
現在茶畑になっている


墳丘の上からでは全体の姿が見えない
住宅地と茶畑と古墳群が混在している
高級玉露茶の生産地
茶畑と飯岡車塚古墳
飯岡遺跡は弥生時代後期の高地性集落だが詳細は不明だが丘陵南斜面にを中心に居住域
が広がり 頂部には比較的古い時期の住居と墓域が営まれていたと推測される
丘を下りJR線・近鉄線の踏切を超えて山手の同志社大学南門に向かう
30分近く歩く
南門に同大学教授の若林邦彦先生が出迎えて下さった
簡単な説明の後構内へ
資料館はコロナ対策で15名ずつ分けて入館するためその間にそれぞれ散らばって昼食を摂る

真ん中の青い服が若林先生
同大学構内はとにかく広い



館内は確かに狭い
隅っこに森浩一先生のお写真と業績などが展示されていた
講演が面白くて追っかけをしたこともある
構内には窯跡や古墳群や集落遺跡など散在しており外部からでは自由には見学は難しい
昼食後キャンパス内の遺跡を巡る
若林先生「キャンパス南側、普賢寺川が流れる普賢寺谷に面した丘陵には、戦国期に在地土豪によって築かれた
居館跡が点在します。下司古墳群の立地する支脈先端にある新宮社東方館跡、その東にある新宗谷居館跡さらに東の尾根
支脈にある都谷居館跡などで、それぞれに郭、土塁、壕跡などが残されています。これらは都谷中声居館跡と総称されています。
山背国南部は応仁の乱(1467~1477)前後に多くの戦いがあった地域です。



若林先生「マムシ谷窯跡は
普賢谷に面した丘陵南斜面に造られた須恵器醸成の為の半地下式窯跡です。最大幅は1.55m最長は2.6m床面2面が確認されます。
窯の操業期間は8世紀前葉とみられます。


現在は埋設保存され目印で上にレンガが施されている

大学の正門の脇に「筒城宮跡石碑」がある

以前からこの碑はどこにあるのだろうと思っていたらキャンパス内に1960年に「筒城宮跡顕彰会」によって建立されたもの
若林先生「楠葉宮跡や筒城宮跡も実際にどこだということは判っていませんが今後検証されていくでしょう」

正門を出て南東の丘陵を上がったところに田辺天神山遺跡(海抜82~83m)がある。
若林先生「木津川流域を一望できる尾根の頭頂部
に営まれた弥生時代後期の高地性集落です。集落域は南北60m東西45mの楕円形を呈しています。
平坦面では23棟の縦穴住居跡が広場を取り囲むように検出されました。
出土遺物には弥生土器・鍬先用鉄器・刀子・ヤリカンナ・鉄鍬・石斧・石鍬などです」

ここで若林先生にお礼を言ってお別れ
吉村先生はJR同志社大学駅・近鉄興戸駅までご案内いただきました
両先生ありがとうございました
了