東大阪の遺跡をめぐる
― 山畑古墳群を中心に ―
コロナ禍 半年ぶりの考古(有史会)の会である
総数110名程 これが多いか少ないかは微妙
歩行程7kmとあるから油断した
地図上では平面に見えるが生駒山の裾野をアップ・ダウンで足も膝もがくがくになりながら巡った
そう言えば等高線が狭いよな~
今回橿原考古学の講師は平井洸史先生
近鉄瓢箪山駅前集合
商店街のはずれに瓢箪山稲荷神社がある
平井先生「瓢箪山古墳は全長約50m 墳丘高3.5mの双墳とされており 山畑古墳群では最大
今は見学出来ない様になっているが横穴式石室2基がある 神社の記録では本殿の下にもう1基の石室の記載がある
古墳時代後期(6世紀中頃)の構築と考えられる
稲荷神社の参道の南側には古墳時代の集落跡市尻遺跡がありここからは古墳時代中期~後期の掘立柱建物跡や
従来の土師器に加え新来の設備の作り付けカマドや初期須恵器や韓式系土器など渡来系要素をみいだせる
又馬の歯や製塩土器が出土しており馬の存在が確認される」
繩手遺跡は繩手小学校の下にあり小学校の横に東大阪市立埋蔵文化センターとしてその埋蔵物を保存・展示している


平井先生「縄文時代遺跡としても有名だが古墳時代前期~中期で鉄器生産を示す資料が多く比較的小規模な
馬関連の鍛冶が想起される」
繩手遺跡から鳴川沿いを1km東へ上ると古墳時代後期の群落墳である六万寺古墳群がある
現在見ることが出来るのは1号墳(高塚古墳)と2号墳(二本松古墳)の2つだけである



平井先生「2号墳は全長12.7mの大型石室を持つ方墳である
仏教とかかわりの深い「格狭間(こうざま)を施した棺台とみられる石材が見つかった
この古墳群では計八基の古墳が確認されている」

平井先生「消滅したものを含めると60基程度
隣接する花草山古墳などを含めると100基以上がある
河内の4大古墳群として他に
一須賀古墳群・平尾山古墳群・高安千塚古墳群がある」
お昼から山畑22号墳に行く
その前に大池公園で昼食




大阪の街が一望できる
真ん中の高いビルが「あべのハルカス」
古代の地図ではほとんどが海の底であった
生駒山麓の山畑・繩手の位置がよくわかる
あべのハルカスは難波の宮のある上町台地より左側なので大阪湾の底である
今は景色より飯だ!
ハルカスと同じ目線くらいまで登ったんだろうか
もう足がだるい
40分の休憩で今度は下りだ
足に来る
六万寺古墳群から北へ1km歩くと東大阪市立郷土博物館に着く
この辺りは山畑古墳群の中でも最も古墳の集中するところである



1号墳・2号墳に行く


山畑2号墳
平井先生「古墳時代終末期で墳型は上円下方墳とされる この時期限定的に作られた墳型
には今後注意が必要である」


平井先生「河内馬飼首は河内において馬匹生産に携わったとされる氏族
この一族の河内母樹馬飼首「母樹」の地名がみられる東大阪市豊浦町あたりに関連のある人物とされることから
河内馬飼首と当地域関係性を読み取れる
また河内馬飼首といえば河内馬飼首荒籠が継体大王の擁立の功労者として有名であるが
この擁立には河内にも多大な影響力をもっていた大伴氏が深く関わったとされ荒籠による継体への接触は大伴金村
の意を受けたという意見もある
ここにみる大伴氏との接点は被葬者候補として大伴氏に挙げられる金山古墳と河内馬飼首が被葬者に含まれるであろう山畑古墳群の両社に双円墳がみられることに関係するのであろうか」
ここから1kmほど山を下り近鉄線の踏切を超えた所に河内寺廃寺跡がある


平井先生「江戸時代より瓦が採集され「河内寺(こんでら)」と確認された
四天王寺式の伽藍配置で創建は飛鳥時代後半とされる
造営氏族は渡来系氏族である「河内連」が有力視される
尚この遺跡のすぐ南側の皿池遺跡は河内郡大宅郷に比定されており「郡衙」が存在したと推定される
第8次調査では三彩陶(渤海三彩)が出土し郡衙の可能性が大きいと指摘されている」



近鉄線に沿って300mほど歩くと河内一の宮枚岡神社に着く
そうかここが河内の「一の宮」なんだ
河内は宇野讃良(持統天皇)の出身地
河内湖と生駒に囲まれ馬や塩・菜種油など現在なら自動車とガソリンと塩など最強の生産物を誇っていた
当然その力は時の政治にも大きな影響力があった地域であろう





近鉄平岡駅は神社の前だった
お疲れ様