9月14日
「国が衰退する」前てどんな状況なんだろうか
「我々は果たして本当に衰退しているのだろうか」と思いながら周りを見渡してみる。
金持ちだけではなく、一般庶民も海外旅行にでかけ、通訳兼添乗員付き「パック旅行」花盛り。
同じ旅行でも国内だけでなく近隣諸国にいくのも「温泉」のあるなしがポイントで、このブームはおそらく大都市生活のストレスあるいは急速にすすんだ管理社会のストレスからだろうが、豊だが退屈な社会社会に特有の「アンニュイ」(怠惰感)がこうしたストレスと結びつくと「癒し」が求められるようになる。
展覧会、博覧会、スポーツイベントなどに血眼になり、徹夜で行列したり、2日や3日前から行列する。
高等教育を受けた者もイラストや漫画が入った読み物以外は読まない。
煙草やドラッグにやかましく言うのは勿論、雑誌を開けば「健康」記事がでる、「健康」ブーム。スポーツが好きといってもほとんど観戦。
呪術や占い、あるいは迷信などの本が有名書店にずらっと並ぶ。古来からの宗教では人が寄らなく、怪しげな新興宗教が乱立する。
「グルメ趣味」「グルメブーム」が起こる。
上記は日本の話ではない。
19世紀末から20世紀初めの「大英帝国」の様子である。
もしkantaがアメリカ大統領だったら
個人的性格の違いだろうが、kantaなら「報復」はしない。「報復」の「報復」で何100年も「報復」のし合いをしている国をみて、どちらかが一度我慢すればいいのにと思う。
「報復」の前には何か原因があったはず。原因は兎も角、とりあえず今後お互いに暴力だけは止めようという取り決めを呼びかける。でも呼びかけにも応じない、暴力も止まないとなれば、ウウウ・・・・「手段を選ばず・・・かな?!」
黙祷
9月13日
「ISlama」とは
アラビア語に「アスラマ(aslama)」という単語がある。
その意味は「一般的に人が自分の大事な所有物、手放すのがつらいような貴重な所有物を他人に渡してその自由処理に任せる」ということである。
8世紀の初め、天才的預言者ムハンマドがこの単語〔同意語でイスラーマ(islama)〕を宗教的次元に移行させ、その意味構造を根本的に宗教化した。
「自我の意思、意欲に由来する一切の積極的な心の動きを抑え、自分を完全に放棄してすべて相手の意のままに任せる。この自分をゆだねるのは、唯一絶対の神である。即ち、断固として自分の意欲を切り棄て、すべて神の心のままにうち任せ神の計らいがどうであろうとも、神への絶対無条件な依存の態度である」。唯一絶対の神の名は、アッラー。
この神は限りなくやさしい愛と慈悲、恐ろしい怒りと復讐のこころという矛盾する明暗の二面が一体化している。
いずれが表か裏か、神への感謝と怖れは愛と寛容と慈悲を示し、無信仰、非服従、反抗に対しては、天誅を約し、復讐や報復でもって向かえる。「無信仰者どもは砕き釜の中で粉々にすりつぶされ、炎々と劫火燃え盛る底無し穴に叩き込まれる」
徒な張り合いごとにうつつをぬかすお前たち、
墓に行くまでそのままなのか、
いやいや、いまに思い知る時が来るだろう。
も一度言おうか、いまに思い知る時が来るだろう。
いやいや、今ここではっきり知って貰いたい。
きっと、きっとお前たち、その目で地獄を眺めるぞ。
も一度言おうか、きっとお前たち
その目で地獄を眺めるぞ。
その日こそ、お前たち
遊びほうけて来た罪を問はれるぞ。 (コーラン第102章1−8節)
「yahoo clubs」からのメールがはいる
アメリカのヤフークラブに参加していると、世界中からメールが入る。
以下は今日入った中の一文である。
『hi everybody ! i'm ali from Iran ! yah it's terrible ! terrosim i mean ! i donnow why they do that ! but i must say to you all now that now you can undrestand what's terible when US Army attack to Iran ! attack to Iraq ! attack to Palestin ! now you can undrestand that how it's hard for you ! yah you have more than 1000 people dead ! but do you know when US army attack to Us , to Iran ! we have more than 1,000,000 people dead !???? you know !???????????? !
now god show you that you are NOTHING !!! you are absolutely NOTHING !? we had war 8 years by USA ! who said why !?? who said !? who thought that we slept in 8 years war ! we didn't know next day we will be alive or dead !??? so why you don't think about it !? yeah ! we had more than 1 000 000 people dead !!! can you imagin !??????
anyway ! we are also sad about those turist which were in the top of that nice buldings ! and really sad of this happening to you all american and will pray for you !
ali from Iran』
9月12日
kanta勝手に「王家の谷」と説る
大阪と京都の境に枚方樟葉がある。枚方は「日本書紀」には平潟で登場する。山城川(淀川)が作る広大な潟だった。
隣の町は京都府八幡市、両市にまたがる男山は岩清水八幡宮。その山すそに鏡池がある。今は「市民の森」として整備されている。古来観月の名所であり、鷹狩のあと鷹の姿を映すのが慣わしだったという。その池の横にこんもりとした森がありそこには交野天神社がある。神社の裏手に昼間も薄ぐらい森の奥、階段の上に継体天皇即位の地「樟葉宮跡」の碑がある。
「書記」によると『武烈天皇は木に登らせた人間を弓で射殺したり、妊婦の腹を裂いたりという非常な暴君であった。武烈が死ぬと、余りにも沢山の人を殺したため次になる天皇がいなかった。(ここが考古学上論争の多いところで、何かの理由で天皇家の血筋が絶えたのではないか)そこで当時の朝廷の最大権力者大伴金村は越前の三国に住んでいた応神天皇の五世の孫で、彦主人王と垂仁天皇の七世の孫、振姫の子、男大迹王(おおどのおおきみ)を迎え様とするが、なかなか承諾しない。必至の説得でやっと河内国樟葉で継体天皇として即位する。天皇はこの地に五年いて山城の筒城(京都府京田辺市)に宮を移し七年、さらに弟国(同・向日市)に八年いて、ようやく二十年目に大和政権の本拠、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)(奈良県桜井市)に入った』とある。継体天皇は謎だらけの天皇である。何故そんな遠縁から迎えたのか、何故樟葉で即位し、長年大和に入らなかったのか。川向の高槻市に現在継体天皇陵とされている「茶臼山古墳」があるが、どうもその隣にある「今城古墳」が本当らしい。これは参考墳にもなっていないので、釣堀やら市民が自由に入れるようになっている。
実は飛鳥の宮群(例えば板葺宮、浄原宮、小冶田宮など)、藤原京、平城京、恭仁京、筒城、弟国、長岡京と、泉川(木津川)の沿線、その周辺を中心に京や宮が移動している、いわゆる「王家の谷」なんだと勝手に「説」っているんだが。(写真は恭仁京跡)
TVに釘づけ(緊急)
仕事から帰りニュースをみて唖然とした。我が目を疑った。ニューヨークとワシントンの自爆テロの光景に見入っている。
人間て本当にすごいことをするんだ。将に地獄絵。これは映画のシーンではないのだ。ここには人間としての尊厳やモラルや人間性は抹殺されている。
もしこれが核爆弾だったら。 日本はどうなんだろう。
9月11日
インドIT事情
日印情報サミット出席の為に来日したマハジャン・インドIT相は会見で「インドは今後日本で不足するIT技術者の供給基地になる」「インドは今後年間20〜30万人の技術者を輩出し、その内10万人がIT専門家となる」という。
インド・ソフトウェア産業の「人材」即ちエンジニア―はいかに豊富で、いかに良質で、どのくらい国際的に見て賃金が安いのであろうか。
2000年3月時点でインド国内のソフトウェア・サービス企業に雇用されている技術者は34万人と推定される。これは米国についで世界第二位である。1995年の14万人から5年間で約倍である。この勢いは2008年には250万人に増えるとされる。これはインド科学大学院を最高峰として、総合大学、単科大学、職業訓練校など1676の教育機関の存在による。ここから毎年12万2千人が輩出される。彼らは「引き手あまた」であり又給料も高い。初任給は15万6千円、インドの平均初任給4万5千円からすればかなりの高給である。当然インド工科大学などは2200人の募集に20万人の受験生が集まる。
しかしそれでも給料の国際水準、例えば米国エンジニアーの3分の1以下であり、プログラマーでは10分の1である。
インド経済紙のエコノミック・タイムスによれば、インド人IT技術者に対する潜在需要は米国の20万人、アイルランド3万2千人ドイツ、フランス2万人、日本1万人と推定している。
インド政府がコンピューターに注目したのは1984年11月、当時のラジブ・ガンジー政権が「コンピューター政策」を発表。関連教育機関の整備、バンガロールをそのメッカとして技術者教育が国家の優先課題となった。35歳以下だけで3億人いるという人工資源と、元来もつ数学的思考(アラビア数字はインドの発明、アラビアに伝わり世界に広まった。アラビアではインド数字という)や、旺盛な企業家精神、そして英語能力、などがその成果を導く。
「1980年代はアジア新興国の10年、90年代は中国の10年、2000年からの10年はインドの時代になる」「この10年で、世界のなかで非常に重要な国になる」「インドの将来は明るいと信じる」と多くの人々が目を輝かす。
親が子供を殺し、先生が生徒を殺し、官僚が国を食い物にする、そんな滅び行く国から見れば、垂涎の感がある。
9月10日
「恨の法廷」井沢元彦を読んで
最近インターネット上で本を探したり、注文をすることが多くなった。
特に古書は価格が安いのでうまく利用すれば大体新本の3〜5割位で入手できる。勿論難点もある。
最大の難点は立ち読みが出来ないこと。どんなんかな、と思っても手にとれない。
本屋や図書館で読んで、これは手元に置いておきたいなんていうときはそのメリットは大である。
時々題名だけで勝手に推測して注文すると「絵本」だったりする。情けないやら、腹が立つやら、可笑しいやら。でも全体として3割引だなどと納得させる。
そんななかに、当りがあった。
「恨」だから多分「韓国物」だろうと思ったが、まったくその通りで、今自分が捜し求めている題材ではないか。
作品は1991年に日経新聞から出版されたものだが、今読んでも問題の本質は全然変わっていない。日韓に横たわる誤解とか、感情的しこり、私が知りたいと思っている「恨」そのものが氏の目を通して、デスカッション・ドラマという型で展開される。
天帝という神を裁判長にして、日韓の政治、文化、宗教、言語、人種などの比較、考察を双方の一般庶民や文化人が法廷の場で言い争う。面白いのは証人として日本からは、慧慈、聖徳太子、親鸞、道元、上杉鷹山など、韓国からは、檀君、金春秋、李退渓、金玄達。参考人として中国からは朱喜、台湾は、陳行徳など、登場するたびに「なんでやねん」という笑いがこみ上げてくる。
一気に読んでしまった。一読あれ。
その中の上杉鷹山(ジョン・F・ケネデイーが日本人で最も尊敬したという)の証言『藩は窮乏の危機に立たされた。何とか改革をして立ち直らせなければならない。がしかし最後まで反対した者がおった。我が藩創成以来の重臣どもじゃ。体面にかかわるとか、みっともないとか様々な理由をつけて反対するんじゃ』なんかどっかで聞いたような、あるような話じゃの〜。
9月7日
ふれるのもいやなのだが
人の性と言うか、欲と業の見本のような出来事が多すぎてため息も出果てた昨今。
「民食う人々」佐高信を読んでいると、人が変わったり役所の名称が変わったりはするが、事の本質は全く変わっていないのに気づく。これは4年前にでた本である。
『私は生産性も創造性もない、百害あって一利なしの官庁を「霞ヶ関清算官庁」と呼ぶようにしている。運輸省のみならず、外務省にもあてはまる。海外にいった日本人旅行者がトラブルに巻き込まれても大使館はなにもしてくれなかった。・・・各大使館の主な仕事は、日本から視察にやってくる政治家や官僚達の接待である。視察と称して物見遊山にくる政治家や官僚の型通りのスケジュールをどう組むか、おみやげを何にするかに頭をなやましている。』『外務省の役割は大きく言って2つある。ひとつは宮中晩餐会などに国賓を迎えたときの席順や流れをスムースにさせるなどのプロトコール外交。もうひとつ大事なことは国を代表しての利害調整。しかし外務省は今、後者を完全に放棄している。このことは他の省庁も呆れ返っている』『他の省庁と比して許認可権限や公共事業が少ない為企業への影響力が小さく、所管する特殊法人もわずか2つと、天下り先も極めて少ない。そうしたことに対する不満に加え、近年は、大蔵や通産が外務省の頭越しで独自の外交を進めるケースも多く、外交力が弱体化する外務省に情熱を失う官僚も少なくないというわれる。』『パーティー外交しか出来ないガラスのエリート』とある。
ということは、「ピンはね専門の国の太鼓もち」だったんだ。別に存続していなくても外務に何の支障もないんだ。退職後天下りが出来ないから現役の時に精々「こそ泥」とか、出入りの業者にたかる、出先の国で邦人企業にたかるという姑息な方法で小金を貯めないと、他の省庁のように悠然と「大泥棒の谷渡り」ができないんだ。「泥棒集団に金庫を預けている」この国と、この国の人々てつらいよな〜。
9月6日
「癌患者になった癌研究医」から
『突然変異の回数からみても、私達人間はガンにいつかかってもおかしくないはずなのです。
卵子と精子が結合し、生まれて死ぬまでの人間の一生には10の16乗回分の細胞分裂が起こります。
つまり、1兆の1万倍ですから1京倍です。一つの細胞の一生の世代に直すと、ほぼ五十世代に相当します。自然界に起こる突然変異が100万から1000万回の細胞分裂に一回程度だとすると、人間の一生の間には10億〜100億回の突然変異が起こる計算になります。そのうちのいくつかの突然変異はガン遺伝子をガンにかえるかも知れません。この計算通りだとすると、すべての人間は若くしてガンで死ぬことになります。しかし現実ではそうではありません。
ガンにかかる人が増えたのは、長生きするようになったからです。しかし一方、ガンを撲滅しても平均寿命は2、3年しか延びません。
研究者の立場から考えると、どうしてこんなにガンがすくないのか本当に不思議です。なぜこんなにガンが少ないのか、なにかがガンから私達を守ってくれているとしか考えられません。免疫もそのひとつでしょうが、免疫はできてしまったガン細胞を攻撃するだけです。ガン細胞が生まれる前、発ガン物質ができたときから、何段階にもわたるセキュウリティーが私達の体には隠されているのです。
しかしそうした素晴らしいシステムを備えた人の体ですが、その細胞には寿命があります。ところが、ガン細胞には寿命がありません。不老不死なのです。生まれるときも幾重にも張り巡らされたセキュりティ―を突破するたくましい細胞でもあります。
そのような強敵と戦うのは、生易しいことではありません。戦うためには相手をよく知ることが必要です。この戦いはガン細胞というとてつもない強敵との知的ゲームともいえるのです。』とある。
そうなんだ、癌というのは加齢の一つの状態なんだ。
9月5日
六波羅蜜寺に立つ
興福寺北円堂は西国札所の賑わいの南円堂の横でひっそりとしている。年に二回の開帳を待って「国宝の館」に行く。60歳前後の老仏師はここに最後の輝きを見せた。インド僧「無着(むじゃく)」と「世親(せしん)」像である。これこそ日本が世界に誇りうる彫刻である。
仏師の生年月日は不詳だが仁平年間(1151〜1154)の初めに生まれたとされる。時代は平安末期、武士の台頭と末法思想とが西方浄土に向かわせる。時は保元、平治の乱直前である。
もともとこの仏師、興福寺の堂衆(どうしゅう〜下級の雑役僧)であったが、仏師の子として生まれ父と共に、仏像の修復、管理にたずさわっていた。
都は京、仏師定朝直系の京都仏師が主流であり、院尊を棟梁とする院派、明円の円派がしのぎをけずっており、奈良仏師集団などは全くのローカルであった。
大きな転機がきた。治承四年(1180年)十二月、清盛の子重衡が東大寺と興福寺に火を放った。南都炎上である。兵火の為、人の手で寺や仏像が焼かれるという仏師にとっては衝撃的な出来事であっただろう。しかしそのことは、修理や維持のためでなく、彼等に創作の機会を与えた。
焼き討ちから十二年、建久三年(1192)、鎌倉に源頼朝の幕府が成立。
その間、職場をなくした仏師は相模の浄楽寺、伊豆願成就院などにその痕跡をみせる。
建久六年(1195)東大寺再建、以後定朝以来の仏師の町七条仏所に工房を開き、彫刻界を制覇していく。多くの仏像が兵火によって焼け落ちその混乱の世を生き抜く武士や庶民の姿を写実的に表現していく。無意味な誇張も無駄な動きもない「無着」「世親」に到達するには、同僚との確執や本流争いなど様々な生くさい中からのものであろうか。
仏師の名は運慶。
京都六波羅蜜寺にある、彼の子供湛慶作「運慶」の前に今立つ。
9月4日
森が無くなるということは、木が無くなるというだけではない。
「百年 河清を待つ」という言葉があるが、川の周りに木や森が無ければ何年待っても清は無い。
中国は黄河の周りは国土の42%も占める西北、華北、東北地区の「三北地帯」とよばれ、かつては森林と草原で覆われていた。戦争、人口増加、伐採、開墾、薪取り、などで森は費えてしまった。
黄河の水1立方に約35kgの泥砂が溶け込んでいる。これは1m立方の湯船に子供が一人溶けているほどの量である。河口には一年で14〜16億トンの泥砂が堆積する。この泥砂を1mの高さで1mの幅の堤防をつくれば赤道を27周できる量である。中国全体では年間50億トンの土壌が流失しているという。「黄河を流れるのは土砂ではない。中華民族の赤い血である」という言い方があるという。
「揚子江の黄河化」が問題になっている。上流の四川省はパンダの生息地。最近の開発で森林の減少からパンダも激減、流砂量も黄河の3分1までになってきた。
政府も手をこまねいているわけではない。植林など各種プロジェクトを敢行するが開発のスピードには勝てない。最近周辺の零細農家の耕地を強制的に取り上げそこに植林をしょうという計画がある。その数全農家の1割。中国の農業従事者は約9億人、その1割だから約9000万人農家の土地に植林をしていくという。勿論農家に補償しなければならないのであるが、中国のWTO加盟交渉はこの補償金を要求して最後までもめたのである。
どこかの国の5%の失業率なんて桁が違う。
いずれにしても森林が国土を守り地球を守るということはいまや常識化しているのにもかかわらず、その破壊はとどめも無い。
9月3日
kanta二条城に行く
鴨川沿いの仏像教室が改修の為新しい教室が「二条城」の隣に引越しとなった。
早速教室を抜け出して探索に行く。時々前は通るが入るのは、小学校以来である。
まずは解説。『二条城は1603年(慶長八年)徳川初代将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛の時の宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構(天守閣など)を移すなどして造営し、1626年(寛永三年)完成したものです。したがって、豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康がたてた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが綜合されて、いわつる、桃山時代様式の全貌をこの城に見ることができます。
1867年15代将軍慶喜の大政奉還により、二条城は朝廷のものとなり、ついで1884年(明治17年)離宮となり、1939年(昭和14年)京都市に下賜され現在に至っています。』とある。
入城料600円、白人、黒人、黄人(多分広東語、ハングル、北京語だと思う)が8割。
総面積は約8万5千坪、国宝の二の丸御殿は建坪1000坪部屋数は33室。
中がこんなに広くて緑豊とは思わなかったし都会の中にあるとは
思えないほど静寂である。
重文の東大手門を進むと国宝二の丸御殿がある。
「鶯張り」の廊下がたのしみである。
室内は撮影禁止のため、絵葉書を買う。
各部屋加納探幽や、興以、尚信など狩野派の襖絵が張り巡らされている。
何と行っても感動は「大広間一の間」である。『1867年(慶応3年)10月 15代将軍慶喜が諸大名をあつめ、大政奉
還を発表し徳川幕府265年の幕を閉じた歴史的な部屋であります』。大広間には将軍様と、老中、諸大名など10体ほどの等身大の人形がおいてあり、へ〜えここで歴史は動いたのだ、なんて感傷に入った。「鶯張り」でピョンピョンしていると、背の高い白人の男の子が同じように私の横で飛び跳ねた。ピョンピョンホーホケキョ。二人は何も言わず目を交わしながら微笑んだ。
白書院(将軍の居間、寝室)、黒書院(将軍と親藩などとの内輪の対面所)、老中の間や勅使の間などを通って庭に出る。
特別名勝の二の丸庭園である『二の丸庭園は古来からの造園術にしたがい、池の中央に蓬莱島、その左右に鶴亀の島を配した池泉回遊式庭園で、小堀遠州作と伝えられる。庭は大広間から見えるように作られ、色彩に富んだ大小さまざまな石組にあらわれた力強さは、豪壮な城郭建築とよく調和しています』とある。
このあと、本丸に行く。
『本丸は1626年8寛永3年)3代将軍家光により増築したもの、もとは、城内に高くそびえ壮観を誇っていた5層の天守閣がありましたが、1750年雷火により、1788年大火による類焼。
そこからくるっと廻って帰りにつくと、清流園というきれいな庭にでくわす。
仏像教室はこの建物の後ろの堀の向こう側あたりかなと思いながら、堀一つ挟んでなんでこんなに世界が違うのかなと思いながら、鑑賞した。
『この庭園は、江戸時代の豪商角倉了以の屋敷から、建物の一部と庭石約800個を譲り受け、これをもとに二条城にふさわしく、雄大・明朗・風雅をモチーフに全国から集めた銘石300個と新築の茶室を加え1965年(昭和40年)完成。総面積5000坪、園内には、香雲亭、茶室和楽庵があり、市民大茶会をはじめ国賓公賓の接遇場所にも利用されている』とある。
約一時間駆け足で廻ったが、将軍様とは言え出張宿泊先としては壮大な規模。
これを、今作るとしたらものすごいお金が必要なんだろうな。このお金はどこから来てるのかな
などと、ひとの懐なんかどうでもいいのだが、抜け出した教室にもどる。
それはそうと、「二条城」て世界文化遺産に認定されているんだって。