ようこそKANTAの美術博物館へ
と言っても 只々 自分の好きな美術芸術作品や遺物を過去の取材や
NETや絵葉書のスキャンやパンフから
集めただけのことで個人のメモ帖みたいなものです
お気軽にご鑑賞ください
(絵の上にポイントでクリック 大画面になります)
作品名
絵の順番に並んでいます
| ①ヴァージナルの前に座る若い女 |
②ヴァージナルの前に座る女 |
③ヴァージナルの前に立つ女 |
④ ギターを弾く女 |
⑤ディアナとニンフたち |
| ⑥ デルフトの眺望 |
⑦フルートを持つ女 |
⑧マリアとマルタの家のキリスト |
⑨リュートを調弦する女 |
⑩ レースを編む女 |
| ⑪ ワイングラスを持つ娘 |
⑫ 音楽の稽古 |
⑬ 絵画芸術 |
⑭ 牛乳を注ぐ女 |
⑮ 合奏 |
| ⑯士官と笑う娘 |
⑰ 取り持ち女 |
⑱ 手紙を書く女 |
⑲ 手紙を書く婦人と召使 |
⑳ デルフトの小路 |
| ㉑少女 |
㉒ 信仰の寓意 |
㉓ 真珠の耳飾りの少女 |
㉔ 真珠の首飾りの女 |
㉕ 紳士とワインを飲む女 |
| ㉖ 水差しを持つ女 |
㉗ 聖プラクセティス |
㉘ 青衣の女 |
㉙ 赤い帽子の女 |
㉚窓辺で手紙を読む女 |
| ㉛ 地理学者 |
㉜ 中断された音楽の稽古 |
㉝ 天秤を持つ女 |
㉞天文学者 |
㉟ 婦人と召使 |
| ㊱ 眠る女 |
㊲恋文 |
|
|
|
バロック絵画~「バロック美術」とは(AI)
『バロック美術は
1600年代〜
1700年代初頭までの間に発展した美術様式です。
「バロック」とは
「ゆがんだ真珠」を意味し、もともとはそれまでヨーロッパで高まった「ルネサンス様式」から派生したものとして、
批判的な意味で使われていた言葉でした。
イタリア・フィレンツェから始まったルネサンスは、均衡の取れた優美さが特徴でした。
しかし、当時のカトリック教会への反発や、後期ルネサンスの画家・ミケランジェロの肉体を強調した作風を経て
、時代はダイナミックな動きや明暗の強調、臨場感のある「バロック」様式へシフトしていきます。
バロックに入ると宗教や神話を題材にした絵画だけでなく、
それまでは描かれてこなかった風景画、風俗画、静物画、一般市民の肖像画も登場するようになります。
バロックはイタリアからオランダ、スペイン、ベルギーへと広がり、ベラスケスやカラヴァッジョ
、ルーベンスといった画家のほか、ベルニーニやボッロミーニといった建築家も生み出しました。
ヨハネス・フェルメールは、
17世紀オランダ黄金時代を代表する画家で、柔らかな光と静謐な空間を描いたことで知られています。
生涯に残した作品はわずか
35〜
37点とされ、その希少性と謎めいた人生から「光の魔術師」と呼ばれています。』
《AIによるフェルメールの基本情報》
本名:ヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト
生誕:
1632年
10月
31日、オランダ・デルフト
死没:
1675年
12月
15日、デルフト(享年
43歳)
活動時期:バロック期、オランダ黄金時代
特徴
写実的な手法、緻密な空間構成、柔らかな光の表現
光の表現:窓から差し込む自然光を巧みに描き、室内の静謐な雰囲気を演出
フェルメール・ブルー:高価な顔料「ラピスラズリ」を用いた鮮やかな青色が代名詞
遠近法と構図:カメラ・オブスクラを利用したとされる正確な遠近感
主題:市民生活の一瞬を切り取った風俗画が中心
生涯と評価
父は居酒屋兼画廊を営み、フェルメールはその環境で育つ
20代で結婚し、聖ルカ画家組合に親方として登録。
30歳で理事長に選出されるなど人望も厚かった
生涯で残した作品は
30〜
37点程度と非常に少なく、「寡作の画家」として知られる
存命中はそれほど有名ではなく、死後しばらく忘れられていたが、
19世紀に再評価され世界的巨匠となった
エピローグ
現在なら夭折である
作品の希少性から贋作事件や盗難事件が多く、特に『合奏』は第二次世界大戦中に盗まれた
作品中サインと制作年が書かれているのは「⑰取り持ち女」「㉞天文学者」「㉛地理学者」の3点
晩年は体調の悪さからか作品の出来が悪く 真贋問題も多くある
風景画は「⑥デルフトの眺望」「⑳デルフトの小路」の2点のみ
KANTAが鑑賞した作品
ウイーン美術史博物館 常設
「⑬絵画芸術」
以下 大阪市立博物館フェルメール展
「⑧マリアとマルタの家のキリスト」
「⑨リュートを調弦する女」
「⑰取り持ち女」
「⑱手紙を書く女」
「⑲手紙を書く婦人と召使」
「㊲恋文」
ボタニカル・アート
水彩画
パステル画
休憩・談話室
KANTAの出合った感動もの
①ツタンカーメン遺跡


2013年2月エジプトの旅 カイロでピラミッドを見た後 飛行機でルクソールへ
そこからクルーズ船で3泊4日 ナイル川を遡り「王家の谷」までバス
砂漠の中のはげ山である
ここが歴代の王家の人々の埋葬の地
バスを降りてから灼熱の道沿いに発掘済みの墓の口があちこちに開いている
確かどこでも2か所だけ見れるというチケットだった
当然1つはこの墓である
ツタンカーメンの墓は入り口は小さい 緩い勾配で地下に降りていく
部屋に入る直前 写真のミイラの石棺が展示されてる(ミイラはカイロ博物館)
「王家の谷」や「カイロの旧国立博物館」では一切の写真撮影は禁止である
見つかればカメラ没収の上 高額罰金である
従って物売りが結構高い価格で上の写真を売り回る
副葬品部屋にも溢れんばかりの遺品(現物は博物館に有りほとんどがレプリカ)が詰め込まれている

何といっても黄金のマスクはカイロの博物館の中の特別室(別料金が必要)
これは旅行代金に含まれていないから自腹である
値段は忘れたが現地の人はまず入れないほどだったと思う
従って周りの喧噪の中 ガラス張りのお部屋の真ん中にガラスケースに1点だけ展示されてて
世界でもその瞬間は独り占めのような夢の世界だった
ガラス箱の周りを何十回と回った
館内の至る処にエジプト中から集められた遺物が木箱のままゴロゴロ置いてあった
開封しても展示の場所が無いのである
博物館訪問当時その隣で新博物館の工事が始まっていた
2025年11月1日にオープン 世界最大の博物館「カイロ大博物館」 90000㎡(東京ドームの10ヶ分)
恐らく遺物をみるだけで1週間は必要だろう
②「最後の晩餐」

2014年9月 イタリアの旅でミラノ 「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会」
の一室にある
この絵は1999年に修復を終えた絵である
想像よりサイズは小さかった
フレスコ画ではなくテンペラ画なので傷みが激しいらしい
人の湿気や温度に敏感なので1組25名が15分づつ鑑賞できる
従ってミラノまで行っても予約をしていないとまずは見れない
旅行会社でのパンフには「最後の晩餐」がある教会まで行く旅と
「最後の晩餐」の教会に入れる確約付きの2種類が有るので要注意である
戦災で教会は激しく損傷されたが奇跡的に絵は残された
この時も世界で今この25名が「最後の晩餐」を見ているんだという感動を覚えた


グラツィエ教会 食堂だったり馬屋だったという
AIのまとめ《最後の晩餐》
作品の基本情報
作者:レオナルド・ダ・ヴィンチ
制作年:
1495〜
1498年
技法:乾いた漆喰にテンペラ(実験的な技法)
サイズ:縦約
420〜
460cm
× 横約
880〜
910cm
場所:ミラノ・サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院 食堂
主題
新約聖書の「最後の晩餐」の場面
イエスが弟子たちに
「あなたがたのうちの一人が私を裏切る」
と告げた直後の瞬間を描いている
弟子たちが驚き、動揺し、互いに問いただす“心理ドラマ”が最大の特徴
レオナルドの革新性
①
人間の感情表現~解剖学の知識を活かし、手の動きや表情で心理の揺れをリアルに表現
② 遠近法の巧みさ~ 一点透視図法で奥行きを作り、視線が自然と中央のイエスに集まる構図
③
明暗法(光の演出) ~絵の中の光と実際の食堂の光が一致するように描かれ、現実と絵がつながるような効果
④
テーマの革新~ それ以前の「最後の晩餐」は静かな食事風景が多かったが、
レオナルドは“裏切りの予告”というドラマ性の高い瞬間を描いた
登場人物
中央:イエス
静かに座り、周囲の混乱と対照的な落ち着きを見せる
ユダ
裏切り者。レオナルドは他の弟子と同じ側に描きつつ、
身を引く姿勢や影の表現で“異質さ”を示している
他の弟子たち
3人ずつ
4グループに分かれ、驚き・怒り・疑念など多様な反応を見せる
技法と保存の問題
フレスコではなく実験的な乾式壁画で描いたため、完成直後から劣化が進んだ
何度も修復が行われ、現在見られる姿は大規模修復の成果
③兵馬俑
2015年7月15日からの西安・敦煌・ウルムチの旅で出会った






1号坑と馬車館
隣に2号坑3号坑とあるが当時は保存技術の関係で未掘だった
最近の中国のロボット集団を彷彿とさせる
AIのまとめ《兵馬俑》
兵馬俑 中国・
秦の始皇帝(紀元前259〜210年)陵墓を守るために造られ
死後の世界を守るために作られた副葬品は実物大の兵士と馬の巨大軍団
兵士・馬・戦車などをかたどった粘土製の像は
一体一体が等身大で顔や表情が異なる精巧な造り 「世界の
8番目の不思議」とも呼ばれる
歴史と発見
建設:
紀元前246〜206年、約
40年かけて制作
労働者は
72万人以上とされる
発見:
1974年、西安近郊で井戸を掘っていた農民が偶然発見
(この旅の昼食は発見者 馬さんの子孫の経営レストランだった)
兵馬俑の規模
兵馬俑は主に
3つの坑(ピット)から構成される
1号坑~最大規模。約
6,000体以上の兵士と馬。整然と並ぶ姿が圧巻
2号坑~弓兵・騎兵・戦車など多様な部隊編成が見られる
3号坑~司令部とされる小規模エリア
特徴と技術
➀兵士の顔・髪型・服装がすべて異なる
②青銅製の武器を装備し、今でも輝きを保つほどの技術力
③当初は
鮮やかな彩色が施されていたが、空気に触れて退色したとされる
権力が集中したら何でも出来るんだ
④敦煌・莫高窟
2015年7月15日からの敦煌・西安・ウルムチの旅にて
窟内の撮影は一切出来ない 現地の絵葉書である

「東洋のビーナス」


色彩・デザイン・躍動感は高松塚やキトラ古墳などより遥かに豊富である


開放されているのは極一部である 九層楼
AIによるまとめ《敦煌莫高窟》
(世界最大級の仏教石窟寺院)
「シルクロードが生んだ1000年の仏教芸術の集大成」
所在地:中国・甘粛省敦煌市
別名:千仏洞、敦煌石窟
創建:4世紀(366年頃)
世界遺産登録:
1987年(文化遺産)
石窟数:大小
492窟(全体では
600〜
700以上)
壁画面積:約
45,000㎡
仏像数:
2,000体以上
歴史の流れ
創建(
4世紀) ~僧・
楽僔(らくそん)が最初の窟を掘ったとされる
シルクロードの要衝・敦煌に位置し、仏教文化の交流地として発展。
5世紀の北涼時代の弥勒菩薩像が現存
唐代に最盛期を迎え、壮麗な壁画・塑像が多数制作
衰退〜再発見(
13世紀以降) 元代以降は衰退。
1900年、蔵経洞(
17窟)から「敦煌文書」発見
経典・契約書・絵画など
5万点以上の大資料群。
芸術的特徴
壁画
総面積
45,000㎡に及ぶ大規模壁画
仏教説話、シルクロードのキャラバン、天人、供養者像など多彩
西域・インド・中国の様式が融合し、時代ごとの変化が明確。
仏像(塑像)
2,000体以上の彩色塑像
初期は中央アジア風、後期は中国的表現へと変化。
建築
断崖に掘られた石窟が南北1.6〜1.7kmに連なる巨大規模
九層楼(巨大仏を覆う木造建築)が象徴的。
敦煌文書(蔵経洞)
1900年に発見された古写本群
仏教経典だけでなく、戸籍・契約書・文学・絹本画など多岐にわたる。
チベット語・サンスクリット語・ソグド語など多言語資料。
まとめ
創造的才能の傑作(壮大な壁画・塑像)
文化交流の証拠(シルクロードの交差点)
仏教美術の発展を示す資料
歴史的文献の宝庫(敦煌文書)
見どころ
九層楼(巨大な弥勒仏)
唐代の華麗な壁画群
初期石窟の中央アジア風仏像 蔵経洞(敦煌文書発見の場所)
最後に

痔癖のある人は決して駱駝に乗る不可
富岳三十六景
(追加十景 全四十六景)
全十図(1)

凱風爽快
|

武州千住 |

甲州犬目峠 |

山下白雨
|

深川万年橋下 |

遠江山中 |

甲州三嶌越 |

甲州石班澤 |

駿州江尻 |

常川牛堀 |

信州諏訪湖 |

浅草本願寺 |

相州七里浜 |

相州梅澤左 |

武陽佃嶌 |
全五図(3)

下目黒 |

上総ノ海路 |

登戸浦 |

東海道吉田 |

礫川雪ノ旦 |
全十一図(4)

隠田の水車 |

隅田川関屋の里 |

五百らかん寺さざゐどう |

御厩川岸より両国橋 |

江戸日本橋 |

甲州三坂水面 |

相州江の嶌 |

相州箱根湖水 |

江都駿河町三井見世略図 |

東海道江尻田子の浦略図 |

東海道程ヶ谷 |
全十図(増版分)

甲州井澤暁 |

駿河大野新田 |

諸人登山 |

身延川裏不二 |

相州仲原 |

本所立川 |

駿州片倉茶園ノ不二 |

東海道金谷ノ不二 |

従千住花街眺望ノ不二 |

東海道品川御殿ノ不二 |
葛飾北斎
名前:葛飾北斎(かつしか
ほくさい)
生誕:
1760年
10月
31日(武蔵国葛飾郡・現在の東京都墨田区)
死没:
1849年
5月
10日(享年
88〜
90)
職業:江戸時代後期の浮世絵師
代表作: 『富嶽三十六景』(神奈川沖浪裏・風快晴・山下白雨など)
『北斎漫画』
北斎ほど程魅力的な画家も少ない
構図が天才的(どこに富士山が描かれているか捜すのも面白い)
銅版画・ガラス絵・油絵など、西洋の技法も積極的に研究した
ベロ藍(プルシアンブルー)の使用でジャパニーズブルーを表現
絵に対する執着心も普通ではない
脳卒中で倒れても筆を握り続け、晩年は「画狂老人卍(がきょうろうじん まんじ)」と名乗った
(因みに KANTAはペンネーム「旅狂老人 X(りょきょうろうじんえっくす) 」で~す
拝借しました)
生涯で
90回以上引っ越した と言われるほどの転居癖
一人娘の応為(おうい)の助けも重要 彼女の作品を1点

吉原格子柵之図 |
そしてこの作品こそ集大成の肉筆画

《富士越しの龍》
富岳三十六景を描き終え魂が体から抜けていく
将に不二山から龍が抜け出ていく己の心境に違いない


リンゴをてにした
自画像 |

煙草を手にした
自画像 |

傷をおった
自画像 |

絡子をかけたる
自画像 |

辛夷とリンゴ |

壺とリンゴ |

葡萄とりんご |

ティーポットのある静物 |

割れた皿 |
生涯のテーマ「蝋燭」
何十枚の「蝋燭」作品は決して展示することはなく
身近な人々に進呈した
『花も散り 世はこともなく ひたすらに
たゞ あかあかと陽は照りてあり』野十郎ノート最終頁より
『孤高の画家』
「蝋燭」「月」などの静謐で超写実的な絵画で知られる孤高の洋画家
東京帝大を首席卒業するも独学・無所属・独身を貫き 写実を追求した異色の存在
1890年(明治23年)福岡県久留米市生まれ
1975年千葉県野田市で没(85歳)
本名は 髙島彌壽(やじゅ)
1986年回顧展以降再評価される
余談
KANTAは清流と炎は何時間でも見ておれる
滝から滝つぼに落ち清流となり
炎は万物を浄化する
速水御舟の「炎舞」(1925年制作 1977年重要文化財)
御舟の作品を多く所蔵する山種美術館に行った
「炎舞」は年中展示していると浅はかにも思っていた
展示は1年に1~2ヶ月の期間である
いつか見てみたい


アダンの海辺 |

秋晴 |

秋晴虎鶫 |

奄美の郷に褄紅蝶 |

奄美の海
|

奄美の海に蘇鉄とアダン |

枇榔樹の森 |

枇杷樹の森に崑崙花 |

枇榔と浜木綿 |

千葉 |

ダチュラとアカショウビン
|

草花に蝶と蛾 |

忍冬に尾長 |

奄美の田中一村の住居跡

釈尊大悟御像 |
田中一村について
1908年に栃木県で生まれ、本名は田中孝(たなか・たかし)
幼少期から「神童」と呼ばれるほどの画才を発揮し、
7歳で父から「米邨(べいそん)」の号を排す
18歳で東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学するも わずか
2か月で中退
その後は南画を中心に独学で画業を続ける
戦後 川端龍子主宰の青龍社展に入選し「一村」と号を改めるが中央画壇とは距離を置き続ける
1958年、
50歳で奄美大島に移住
染色工として働きながら 亜熱帯の自然を題材にした独自の花鳥画を描き続ける
生涯を通じて孤高を貫いた一村の作品は 没後に再評価され、今では奄美の自然とともに語り継がれる存在となっている
、1977年
9月
11日 奄美大島で亡くなる 享年69歳
芸術とは洋を問わずかくも孤独で神聖なものなのか(KANTA)
国宝(2021年)「動植綵絵」30幅
➀芍薬群蝶図②梅花小禽図③雪中鴛鴦図④秋塘群雀図⑤向日葵雄鶏図⑥紫陽花双鶏図
⑦大鶏雄雌図⑧梅花皓月図⑨老松孔雀図⑩芙蓉双鶏図⑪老松白鶏図⑫老松鸚鵡図
⑬芦鷺図⑭南天雄鶏図⑮梅花群鶴図⑯棕櫚雄鶏図⑰蓮池遊魚図⑱桃花小禽図
⑲雪中錦鶏図⑳群鶏図㉑薔薇小禽図㉒牡丹小禽図㉓池辺群虫図㉔貝甲図
㉕老松白鳳図㉖芦雁図㉗群魚図(蛸)㉘群魚図(鯛)㉙菊花流水図㉚紅葉小禽図
 ➀芍薬群蝶図 |
 ②梅花小禽図 |
 ③雪中鴛鴦図 |
 ④秋塘群雀図 |
 ⑤向日葵雄鶏図 |
 ⑥紫陽花双鶏図 |
 ⑦大鶏雄雌図
|
 ⑧梅花皓月図 |
 ⑨老松孔雀図 |
 ⑩芙蓉双鶏図 |
 ⑪老松白鶏図
|
 ⑫老松鸚鵡図 |
 ⑬芦鷺図 |
 ⑭南天雄鶏図 |
 ⑮梅花群鶴図 |
 ⑯棕櫚雄鶏図 |
 ⑰蓮池遊魚図 |
 ⑱桃花小禽図
|
 ⑲雪中錦鶏図 |
 ⑳群鶏図 |
 ㉑薔薇小禽 |
 ㉒牡丹小禽図 |
 ㉓池辺群虫図 |
 ㉔貝甲図 |
 ㉕老松白鳳図 |
 ㉖芦雁図 |
 ㉗群魚図(蛸) |
 ㉘群魚図(鯛) |
 ㉙菊花流水図 |
 ㉚紅葉小禽図 |
釈迦三尊像

厖児戯箒図 |

三十六歌仙屏風図(一部) |

付喪神図 |

鸚鵡図 |

鳥獣花木図屏風
伊藤若冲について
1716年 京都・錦小路の問屋「桝屋」の長男として生まれる
桝屋は代々源左衛門が継ぐので略して「桝源」といわれた
居士 名は汝鈞(にょきん) 字は「景和」 本妙は「伊藤」改めて「藤」という
正式名「若冲居士」
(居士とは出家せずに在家ながら仏教に帰依して 修行を行なうものを指す)
若冲の名前の由来
老子「大盁若冲」
大成は欠けたるが若
(ごと)きも その用は弊
(やぶ)れず
大盈
(たいえい)は冲
(むな)しきが若きも その用は窮
(きわ)まらず
(完成したものはどこか欠けているように見えるものだが
それを用いても壊れるこよはない
満ち足りているものは空虚なように見えるが それを用いても尽きるこのがない)
黄檗山の僧大典
(だいてん 後の相国寺住持)によると
若冲について「少くして学を好まず 字を能くせず 凡百の技芸 一も以す所無く」
「丹青に沈潜すること三十年一日の如くなり」とある
若冲の思想・宗教・教養など大典との関係が作品や生き方に大きく影響したと思われる
「米斗翁」
天明の大火で作品の多くを失い深草の黄檗宗石峰寺前にて隠居し
石像群の作成と生活費の為 絵1枚と米1斗の交換で凌いだ
KANTAは2021年3月深草の「石峰寺」を訪れている





多くの羅漢に囲まれた涅槃像(中央上)
天才ここに眠る
印象派は19世紀後半のフランスで誕生し光・色・瞬間的な視覚印象を重視することで
それまでのアカデミックな絵画観を根底から変えた革新的な美術運動
クロード・モネの《印象・日の出》が名称の由来となり
1874年から独立展を重ねながら広く認知されてきた
印象派とは
19世紀後半のフランスで成立した絵画運動
それまで主流だったアカデミー(官展サロン)の歴史画中心の価値観に反発して生まれた
名称はモネの《印象・日の出》を批評家ルイ・ルロワが揶揄したことに由来

印象・日の出 |
印象派の特徴
1. 光の表現を最優先 自然光の変化を観察し、物の輪郭よりも光による色の移ろいを重視
2.
筆触(タッチ)を残す描き方 小さく、薄く、目に見える筆のストロークを活かす
3.
戸外制作(エン・プレヌ・エール) チューブ絵具の普及により屋外での制作が容易になり、自然光の観察が進んだ
4.
日常生活や現代都市の風景を描く 神話・歴史ではなく パリの街並みや余暇文化など身近な題材を選んだ
代表的な画家
| 画家 |
特徴 |
| クロード・モネ |
光と色の変化を徹底的に追求。《睡蓮》《印象・日の出》など |
| ピエール=オーギュスト・ルノワール
|
人物画・祝祭的な雰囲気。《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》 |
| エドガー・ドガ
|
バレエや室内の動きを鋭く観察。《舞台の踊り子》 |
| カミーユ・ピサロ/アルフレッド・シスレー
|
自然風景の描写に優れる |
印象派が生まれた背景
アカデミズムへの反発:歴史画中心の価値観に若手が反発
近代都市パリの誕生:鉄道・都市改造により新しい風景が広がった
産業革命による社会変化:都市化・生活様式の変化が新しい表現を後押し
印象派の影響
絵画だけでなく、音楽(ドビュッシー)や文学にも「印象主義」が広がった
後にポスト印象派(セザンヌ、ゴッホなど)へと発展し 近代絵画の基礎を築いた

かささぎ |

エトッルタの朝 |

印象・日の出 |

グレインスタック |
クロード・モネ
印象派を代表するフランスの画家
光と大気の変化を徹底的に追求し《印象・日の出》や《睡蓮》連作などを通じて近代絵画の流れを大きく変えた人物
生涯にわたり自然の移ろいを観察し続け時間・季節・天候による風景の変化を描く革新的な手法を確立した
基本情報
名前:オスカル=クロード・モネ(
Claude
Monet)
生没年:
1840年
11月
14日〜
1926年
12月
5日(
86歳)
出身:フランス・パリ ノルマンディー地方ル・アーヴルで育つ
所属:印象派の中心人物
光の変化を捉えるため 数十点単位で描き分ける革新的な手法を確立
1859年にパリへ出 ピサロ、ルノワール、シスレーら仲間と交流
1880年代以降 同じモチーフを異な時間帯・天候で描く「連作」を本格化
1883年にジヴェルニーへ移住 自宅に日本庭園風の池を造成する
晩年まで《睡蓮》を描き続け 抽象性の高い表現へ到達
余談
岐阜県関市の高賀渓谷の谷合にある
根道神社の前にある貯水池
が「モネの池」に似ているということが評判となり観光地となった
2023年5月 関市の刃物工場や長良川鉄道に乗ったりと楽しい旅だった
睡蓮は咲いていなかったがそれなりに雰囲気はあった


ヴェネツィアのパラッツォ・ズゥツカーレ |

庭で笠をさす女性 |

ラ・グルヌイエール |

ワーグモントの薔薇の庭 |

木かげ |

ピアノに寄る娘たち(メトロポリタン美術館) |

ピアノを弾く女性たち(オランジュリー美術館蔵) |

ピアノを弾く女性
(シカゴ美術館蔵) |

ピアノを弾く二人の少女(オルセー美術館蔵) |
ピアノを弾く二人の少女(ネブラスカジェスリン美術館蔵)
|

アリスとエリザベス |
 イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢
|

ルグラン嬢の肖像 |

帽子の女 |

絵筆をもつ
クロード・モネ |

アルジェの女 |

座る裸婦 |

妖精の池 |

ブージバァルのダンス |
 ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会 |

雨傘 |
 舟遊びをする人々の昼食 |
ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841–1919)
印象派を代表するフランスの画家 柔らかな光と色彩 人物への温かい眼差しを特徴とする作品で知られている
晩年には
古典回帰や独自の様式を確立し 近代絵画に大きな影響を残した
生涯の概要
1841年、フランス・リモージュ生まれ 仕立屋の家庭に育ち 幼少期にパリへ移住
13歳で磁器の絵付け職人として働き始めるが、産業化の影響で職を失い、絵画の道へ進む
シャルル・グレールのアトリエでモネ シスレー バジールらと出会い、印象派形成の中心人物となる。
1874〜
1886年の印象派展に
4回参加し
都市風俗や女性像を明るい色彩で描き人気を得る
1880年代にイタリア旅行を経て古典芸術に傾倒し
輪郭線を強調した「アングル様式」へ一時的に作風が変化
1919年、カーニュ=シュル=メールで死去。
代表作
『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』(
1876)
『舟遊びをする人々の昼食』(
1881)
『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』
『ラ・グルヌイエール』
『春の花束』
国内の展覧会で「ピアノを弾く少女」を観た
その少女の肌が透明で血管までが透けているように見えた
何度も何十分も観た 感動した
その「ピアノを弾く・・・」の題の絵が7~8点あるとは知らなかった
私が観たのは オルセーかメトロポリタン蔵か
いずれにしても絵具であんな表現が出来るんだ
 1867年パリ万国博覧会の光景 |
 オランピア |
 テュイルリー公園の音楽会 |
 フォリー・ベルジェ―ルのバー |
 草上の昼食 |

死せるキリストと天使たち |

剣をもつ少年 |

オーギュスト・マネ夫妻の肖像 |

スペインの歌手 |

笛を吹く少年 |
参考画

ドガが贈った
「マネとマネ夫人」 1868年頃マネがピアノを弾く夫人の顔が気に入らないと切断
|
その後マネが描いた
「ピアノを弾くマネ夫人」 |

描かれているのは座っている画家のザカリー・アストリュク(1833-1907)を描いているマネ(1832-1883)と、まわりに立っている人物(左から右に)として画家のオットー・ショルデラー(1834-1902)とピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)、マネの友人の作家のエミール・ゾラ(1840-1902)と収集家、音楽家のエドモン・メートル(Edmond
Maître、1840-1898)画家のフレデリック・パシール(1841-1870)クロード・モネ(1840-1926) |
エドゥアール・マネは19世紀フランスで伝統的な絵画観に挑戦、
《草上の昼食》《オランピア》などの革新的作品で近代絵画の扉を開いた画家
写実主義を基盤にしつつサロン(官展)への反発や新しい都市パリの風俗を描き
印象派の先駆者として大きな影響を与えた
又 浮世絵の平面性・大胆な構図に影響を受けたとされる
マネの基本情報
名前:エドゥアール・マネ(
Édouard Manet)
生没年:
1832年
1月
23日〜
1883年
4月
30日
出身:フランス・パリ
所属:写実主義/印象派の先駆者
代表作: 《草上の昼食》
《オランピア》
《笛を吹く少年》
《フォリー=ベルジェールのバー》
生涯の流れ
パリのブルジョワ家庭に生まれ、父は高級官
法律家を望む父に対し マネは絵画への情熱を持ち続けた
歴史画家トマ・クチュールに師事するも 伝統的な指導に満足できず
ルーヴルで古典絵画を模写し スペイン・イタリアなどの巨匠から強い影響を受けた
1860年代 サロンに出品した《草上の昼食》《オランピア》が
「挑発的」「不道徳」と激しい批判を浴び、美術界に大論争を巻き起こす
マネ自身はサロンを重視し続けたため印象派展には参加しなかったが
モネ、ルノワール、ドガら若い画家に大きな影響を与へ
「印象派の指導者・先駆者」と位置づけられる
晩年は病に苦しみながらも制作を続け、《フォリー=ベルジェールのバー》など
近代的な都市生活を象徴する作品を残した
印象派ではないが印象派の魁 印象派に大きな影響を与えたと考えられる
又「笛を吹く少年」などは浮世絵(画面の簡略・似顔絵)風に描かれていると言う

ヴェネツィア、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂の前廊下ら望む |

エジプトの第5の疫病 |

カルタゴを建設するディゴ |

カレー桟橋 |

ソマーヒル、トンブリッジ |

ディエップの港 |

ノーハム城 日ノ出 |

ポリュペモスをあざ笑うオデュッセウス |

ミノタウルス号の難破 |

レイビー城 |

雨、蒸気、速度――グレート・ウェスタン鉄道 |

黄金の枝 |

解体されるために最後の停泊地に曳航される戦艦テメレール号 |

海の漁師たち |

湖に沈む太陽 |

国会議事堂火災 |

吹雪—港口沖の蒸気船 |

霜のおりる朝 |

怠惰の泉 |

奴隷船 |

難破船 |

自画像 |
ウィリアム・ターナー(J. M. W. Turner, 1775–1851)とは
イギリスを代表するロマン主義の画家
**「光の画家」**と呼ばれるほど、光・大気・色彩の表現に革命を起こした彼の作品は
のちの印象派(モネ、ルノワール)に直接影響を与えたと言われている
ターナーの人物像
ロンドンの庶民的な家庭に生まれる
10代でロイヤル・アカデミーに入学(天才少年)
生涯にわたり旅を好み、特にイタリア・ヴェネツィアに魅了される
晩年は孤独で、作品は「抽象的すぎる」と批判されることもあった
死後に再評価され、現在は英国美術の頂点の一人とされる
ターナーの作風の特徴
ターナーの最大の特徴は
輪郭を溶かし、光そのものを描くような表現
霧、朝焼け、夕日、嵐、海の反射
建物や船はしばしば霞み、光の渦に包まれる
船の遭難など
自然の力をドラマチックに描く
晩年はほぼ抽象画に近い
代表作(主要なもの)
《The Fighting Temeraire》(1839)
老朽化した軍艦テメレール号が曳航される場面
英国で「最も愛される絵画」に選ばれたこともある
《Snow Storm – Steam-Boat off a Harbour’s Mouth》(1842)
渦巻く嵐の中の蒸気船。
ターナー自身が「嵐の中で船のマストに縛り付けられて観察した」と語った逸話が有名。
《The Burning of the Houses of Lords and Commons》(1834–35)
ロンドンの国会議事堂の火災を描いた大作
《Venice, from the Porch of Madonna della Salute》(1835)
幻想的な光に包まれたヴェネツィア
モネはターナーを「光の巨匠」と呼んだ
ルノワールもターナーの色彩に影響を受けた
近代絵画の抽象化の先駆けとも言われる

『松林図屏風』

『竹林猿緱図屏風』

『松に鴉・柳に白鷺図屏風』

『竹林七賢人図屏風』


『龍虎図屏風』

『柳橋水車図屏風』
「同上柳の一部拡大図」

『老松図襖(金地院』

『黄山谷愛蘭図』

『花鳥図屏風』

同上一部拡大」 |

『楓図壁貼付』

『松に秋草図屏風』

釈迦多宝如来図
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千利休像 |

達磨図 |

日蓮上人図 |

竹田信玄像 |

三十番神図
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釈迦多宝如来図 |

大徳寺三門雲竜図 |
 涅槃図本法寺 |

涅槃図動物一蘭図 |
長谷川等伯
長谷川等伯(はせがわとうはく(1539–1610)は安土桃山〜江戸初期に活躍した絵師で
長谷川派の祖として知られ 特に《松林図屏風》に代表される幽玄で詩情豊かな水墨表現は
日本美術史上の金字塔とされている
1539年 能登国七尾に生まれ 国主畠山藩の家臣奥山家に生まれるもその後染物・仏像絵師の長谷川家に養子とされる
養子の援助もあり若い頃は仏画や肖像画を描き、地元で名声を得る
1570年代後半に日蓮宗の檀家として本法寺を拠点とし京都へ進出
当時の京都は妙心寺狩野派が圧倒的な権勢を誇っており
等伯はその中で独自の画風を築き上げていく
1610年 京都で没
当時の京都は妙心寺狩野派が圧倒的な権勢を誇っており 等伯はその中で独自の画風を築き上げていく
息子・久蔵の早逝などを経て 晩年はより深い精神性を帯びた作品を残す
等伯の水墨は ただの写生ではなく、
空気・湿度・時間の流れまで描くような独特の静けさを持つ
余白の扱いが巧みで、禅的な「間」の美を体現
桃山の豪華さ
×
静謐な詩情 桃山時代の金碧障壁画の豪華さを取り入れつつ静かで内省的な世界観を融合
代表作
《松林図屏風》(国宝)
《竹林猿猴図屏風》(重文)
《楓図》(智積院蔵)
狩野派とのライバル関係において
等伯はその中で独自の画風を貫き、**「反骨の画聖」**とも呼ばれる
特に息子・久蔵の死後に描かれた作品に 深い孤独と精神性が漂う
26歳で夭逝した久蔵と千利休の切腹による喪失で10年間筆を折る期間があったが
狩野派との軋轢も彼の後の作品の精神性に良い様に作用した様にも思える
ところで等伯の経歴を調べると「等伯・久蔵親子が上洛・・・」と記されている
しかし等伯の妻・久蔵の母のことを記した物はない 何故 妻(母)の所在が不明であるのか
AIでは 「先妻 妙浄 後妻 妙清」とあるが詳細不明
阿部龍太朗の小説「等伯」には「信長と朝野家(畠山氏も含む)の確執のとばっちりを受け親子3名で京都本法寺に
向かうも途中比叡山(朝野派)と信長の攻防の為琵琶湖交通が封鎖される 等伯のみが本法寺にたどり着くも
1年余りは母子の迎えはできなかった 3名が再会して上洛するも戦難を逃れ堺の妙国寺に逗留する
ここで妻静子・・小説上の仮名?)は肺炎になり故郷七尾に帰る途中亡くなる
これは物語上の創作なおか史実に基づいてなのかは定かではない
この時代高貴な女性以外の詳細を知ることは困難なんであろう

参考作品 長谷川久蔵 『花鳥屏風図』