百五十一段 峰山高原・生野銀山・竹田城址・城崎温泉・玄武洞の旅

この旅の目的は以下
➀峰山高原ホテルからの星座鑑賞
②生野銀山観光
③竹田城址踏破
④城崎温泉と玄武洞観光
④は「温泉紀行」の【その1】と温泉巡りの記念すべき訪問地(2012年8月23~27日)
➀②③は初めてである

日本海側の旅の最大のネックは交通である(金沢市近辺を除いて)
1駅2駅行くにも1時間2時間待ちである 今回もそれを存分に味わった
今回は1泊2日で竹田から引き返す予定だったが旅の1週間ほど前TVで玄武洞公園とミュージアム
の紹介が有り そんな立派なミュージアム(2018年改装)が有ったんだと追加して行くことにした
それで折角だからと城崎温泉を予約した為 付け足しの行程なので余計に交通ハラスメントに遭ってしまった感
1日目
朝 出かける時の天気予報に「峰山地方洪水警報」と出ている
峰山て今から行くところやん 新月を狙って星空鑑賞だよ 勘弁してよ
大阪駅から姫路まで新高速で1時間 途中神戸駅あたりでどしゃぶりの雨
姫路駅も大雨だったらしく点検の為 列車が3分程遅れた
姫路駅から20分待ちで播但線(姫路~和田山)で新野駅まで行く
➀の生野銀山に向かっているが列車は寺前駅停まりで折り返す
生野駅迄は乗り継ぎだが それが2時間待ちである やれやれ
調べると一つ手前の新野駅から25分待ちのコミュニティーバス生野駅行がある




新野駅に着く少し前に雨は止んでいた

生野総合病院経由生野駅行きコミュニティーバス(生野駅は市外なので倍の運賃400円)
老夫婦が手を取り合って病院前で降りた




駅から銀山まで4km 往復徒歩2時間である
朝来市に問い合われると歩くかオンデマンタクシーしかないと返信
12時05分に駅西口に迎えの予約をする
バスが着くとすでに乗合タクシーが待っていた 客は1人(運賃片道200円)


入山料1200円


時の権力者は万国共通で金・銀を占有
大同2年とは807年 永禄元年は1558年 天正6年は1578年




山の坑道の状態 まるでシロアリの巣




銀山抗の入り口
左側の階段を上がっていくと徳川時代の露天掘りの旧跡が有る 雨が止んでいる間にこちらを先に行く

く










露天掘りが出来れば事故も少ないし手間も掛からないだろうな
佐渡の金山にも山を裂くような巨大な露天掘り跡があった

汗びっしょりで山から降りてくると観光客の姿も
鉱内に入る

一瞬 振るえた 汗が氷水を浴びたようになっている
平均温度13℃だって
総延長は26km 公開は1000m 因みに地下1000mまで掘っているだそうだ













一摘まみしたいな~
金価格高騰の故 少量でも採取すればいいのに
以前 ヨハネスブルグ近郊の金山ぼた山に人が沢山登っていた
昔の技術では採集出来ないので捨ててたものが 技術の向上で採取可能になり
掘り起こしているんだとガイドが言っていた その周辺には多くのスラム街があった


鉱内に大きな音が響く 爆破の再現だ


鉱脈に沿った竪穴の割れ目は高さ50mあるそうだ
この方法だと下のトロッコに難なく積み込める


秀吉が来た時に飲んだという地下水 そりゃフェイクじゃろ




酒造メーカーの貯蔵所に使われている
平成29年度生野小学校のは 多分成人式に皆で乾杯するんだろうな













良かったな~ 素晴らしい 今まで見た鉱山見学で展示や内容が一番面白かった
こういった鉱山をあちこち周るも 何故昔の人はこんな山奥に
金や銀や銅があることがわかるんだろうといつも不思議に思う
帰りのオンデマンタクシーの予約時間まで50分ほどあった 土産物屋さんのクーラーで助かった

来るときは気づかなかったが 門には菊の御紋が入っている
生野駅で15:20発の特急「はまかぜ4号」を待つ
播但線は姫路から和田山までだが1日3本だけ特急「はまかぜ」が姫路~豊岡がある
特急で1駅 姫路方面に戻る寺前駅に向かう


乗車券は240円だが特急券が1090円である
これが交通ハラスメントの典型
今夜の宿「峰山高原ホテルReLaXia」は駅から17km先にある
公営バスは土・日しか走っていない
平日はホテルの送迎で16:00が最終 これに合わすには上の列車しかないのである
普通列車は1時間に1本だが この時間帯は特急しかない
15時30分に寺前駅に着き30分待ってホテルの車を待つ ホテルまで30分の山道
何故ここに泊まるのか 星空観賞の文字に弱い 予約は2週間前 その時の天気予報は晴れだった
しかし今日は出発の時点で「鑑賞」は諦めた
現地の午前中は大雨だったとか 今は曇天
②峰山高原は標高900m 暁晴山(1077m)千町ヶ峰(1149m)夜鷹山(1056m)などに囲まれている
冬のスキー 春秋夏のキャンプ この梅雨時は閑散期 夕食の時は総勢4名だった
高原ホテルは以前 かんぽの宿だったようだ 設備は結構充実している

窓の外は大きな芝生 天気が良ければ部屋からでも星空が見れそう
食事の前に 雨が止んでいる間に周辺の散歩
来てみて知ったことだが ホテルの横から大きな森がハイキングコースになっている
その中に2010年公開の映画「ノルウエイの森」のロケ地が有るという
残念ながら「ノルウエイの森」は村上春樹の小説くらいのことしか知らない
映画も見ていない 題名の「ノルウエイの森」はビートルズの曲名で
小説の題名もそれから採られたというが曲も知らなかった



ホテルの人に何ですかと問うと「アマゴ」と言う 今夜の御馳走かな




少し開けた所に看板があった この先がロケ地だ


往復2kmほどだが いい散歩だった
部屋に戻り風呂に行く



ここは温泉ではないが水は豊富に有るんだろう たっぷりの湯量だ
さて 夕食だ

魚は鰆だった あれ!


ビール・ワイン・日本酒など飲み放題だった
プリンが最高に美味かった
朝からの運動と飲み放題で部屋が回転しているようだ 寝るぞ~
2日目
昨夜半からの雨は朝も降っていた
朝の送迎は10時しかない
それに合わせて食事と支度をした

今日は「竹田城址」登頂の予定だが 強い雨なら中止して城崎まで行こうとも考えた
現地の天候次第だ 一旦降りると次の列車まで1時間は待つ事になる

10時41分の和田山行が来た 雨が列車を叩く しかし竹田に近づくにつれ 空が明るくなって来た
竹田駅の1駅手前では雨も止んでいた 降りた
③竹田駅 後ろの山が天空の城「竹田城址」
浅来市の案内書に拠ると
『竹田城の始まりは、嘉吉年間(1443年頃)に当時の但馬守護山名宗全が配下の太田垣氏に命じて築かせたのが始まりとされます(口碑)。その後、山名氏の重臣である太田垣氏が初代・光景(誠朝という説あり)以下7代に渡って城主を務めました。しかしながら、天正8年(1580年)羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による但馬攻めにより、竹田城は落城、太田垣氏も没落したと考えられています。
その後、羽柴秀長(城代)、桑山重晴と城主が続き、天正13年(1585年)播磨龍野城主であった赤松広秀(斎村政広)が朝来郡2万石(その後2万2千石)で入城します。現在に残る石垣遺構は、広秀が城主の頃に整備されたと考えられます。また、広秀は「仁政の主君」として領民から慕われていたとされます。養蚕業や漆器産業を奨励し、現在に繋がる地場産業の礎を築きました(漆器作りは、竹田の地場産業である家具製造業の元になったと伝えられています)。他にも、近世儒学の祖とされる藤原惺窩を援助したり、文禄・慶長の役により日本に来た朝鮮の儒学者姜こうに教えを乞うなど、儒学の普及振興にも大きく貢献しました。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いが起こると、当初広秀は西軍に与し丹後田辺城攻めに加わりました。その後、西軍の敗戦を知り竹田城に撤退したところ、東軍として鳥取城を攻めていた因幡鹿野城主亀井玆矩から来援要請を受け出陣、功を挙げたとされます。しかし、鳥取城攻めの際に城下町を放火したとの罪で自刃させられ、竹田城も廃城となったのです。』
またウィキペディアに拠ると
『縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。国の史跡に指定されている。
また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしは円山川の川霧により霞むことから、「天空の城」や「日本のマチュプチュ」とも呼ばれる。
東に立雲峡望む標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは南北約400m、東西約100m。
天守台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし
、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、
現存する山城として日本屈指の規模となっている。』とある

上るルートは4つある
➀駅裏登山道~城入り口に近いが坂が急 約40分
②俵米神社登山道~すこし緩やかであるが距離が長い 約40分
③南登山道~ゆるやかだが長い
④城跡駐車場までのバス~急な坂は無いが駐車場から城跡まで徒歩20分 乗車時間は20分
バスは時間帯に因るが30分~1時間間隔の運行
気温が高ければバスにしょうと思っていたが 雨も止み気温も25~6℃なので➀で登り②で降りることにした
3時間の予定にした
駅裏登山道という名前は竹田駅は城山と反対側が改札口で城山側には乗降口は無い
駅つたいに踏切を渡って折り返し 駅裏まで戻り登山口から登る(意味不明)





駅裏に戻って来た

城下町の堀を挟んで駅裏の登山口



さあ 登りますよ

野獣が降りてくるから必ず施錠せよと書いてある ということは この中に野獣がいるということだ



おお!どうやら入り口に着いたようだ 50分ほど要した ペットボトルも空になった



上の写真は事務所の壁にあったもの
円山川を挟んだ立雲峡からでないと撮れない









本当にマチュプチュの様だ
マチュプチュは3000mの切り立った山の頂きで周りも断崖絶壁だった
インカの高度な石切り技術で隙間の無い石組(つれずれ六十六段参照)
いずれにしても こんな高い場所を切り開いて大きな石を用立てるなんて想像がつかない
ピラミッドやナイル上流の石切り場も行ったが(つれずれ六十九段参照)重機の無い時代に
登るだけでも大変なのに 本当に驚嘆の一言
しかし同時に狭い土地や砂漠の様な痩せた地からの収穫は多いとは思えない
訳も解らない守護職や藩主だとか国王とか族長と名乗って囲い込み 巨大化するために収穫物や労役を収奪した
結果の遺跡であろう 遺跡が素晴らしければ素晴らしいだけその裏に残酷なものが存在したことだと思う
同じ日本海側の小浜城普請の模様を
水上勉『城』という作品の一節が以下にある
『高浜の逸見が治下に車持という村ありて谷奥に大石あり。築城惣奉行見回りの途次、土かぶせたる大石
を見て驚きぬ。百二十貫もありしとみゆ。百姓らつとに知りおりしが、石を匿して届けざりしなり。
奉行職直ちに西津へ運べとの沙汰なり。村民二百余人、土かぶせたるを堀おこして、綱にてひき 修羅車
と称し、格子の枠をもてつくりたるものに乗せ、丸太をころがして持ち出せしが、途中、邪魔になる家三戸あり。
奉行たちどころに嘉平・助蔵・太吉の母屋の取り壊しを命ず。太吉ら、さんまい谷に小舎がけして、雨露をしのぎ、
朝早くから大石をはこび、和田の浜に持ち出すに百日かかりぬ。』と「拾椎実録」は記している。とある
城普請がたたり農民への高年貢(通常より25%アップ)・過度な賦役に疲弊 何十年にも渡って陳情するも投獄・打ち首・流罪
重なる凶作・・・・と続く
全国的にも築城ブームで山の岩を採取し木を切るため
川の氾濫や山崩れが相まって多くの死者が出たという
(同じ頃 美濃郡上一揆・羽前多賀一揆など起こる)





下りも結構きついが 汗の出方が違う

予定より1時間近く早く降りて来た 雨も降らず 直射日光も無く 上出来だ
14時台には列車が無い
1本前は13:34分 近々の列車は15:23分 駅近くに展示館や土産物館などあるが
もう疲れて歩く気もしない 1時間半ほど風通しのいいベンチで静寂を楽しむ
ここから城崎温泉まで乗り換え時間が無ければ50分で行ける
実際は竹田から終点の和田山駅7分で到着 山陰線に乗り換え(待ち時間18分)
和田山から終点豊岡まで29分で浜坂行に乗り換え(待ち時間1時間12分)
豊岡から城崎温泉まで11分
豊岡で1時間以上の列車待ちは厳しい
宿には18時頃になるので 夕食は抜きにした

駅前の御飯屋さんでトンカツ定食を食べた

疲れた体が要求した
タブーの哺乳類の屍体ブタ―を食べてしまった
豊岡から次は玄武洞駅 2つ目が城崎温泉 13年ぶりだ
④相変わらず人は多い 特に平日は外人客が目立つ
今夜の宿は徒歩8分 川筋の「川口屋本店」

宿に着いて荷物を置き 無料の「湯巡りQRコードカード」を貰って湯巡りに出た
13年前は7~8湯全部を周ったが もうそんな元気はない 宿近の「地蔵湯」「一の湯」の2湯に行った


城崎の湯は源泉は70℃以上ある どこも熱い あまりゆっくり入れない 一の湯に洞窟風呂があり驚いた
珍しく 背の高い若い白人が1人入っていた 日本式温泉は初挑戦の様だ
タオルも何も持たず入って来たんだ 周りをきょろきょろ 客の仕草を観察するように見ている
確かに共同風呂に素っ裸で入るのは日本と台湾の一部だろう おもしろい文化だとは思う


TVではこの川堤の積み石は全部玄武洞の玄武岩を使っていると報じていた


相対に以前来た時より活気がない 平日でも川筋は人出溢れていたのに
前回泊まった「新かめや」も真っ暗だった



宿は外人好みに設えで小綺麗にしてある
現に隣も隣も外人客
疲れで早くに寝た
3日目
朝5時半に目覚めた 宿の風呂に行く




風呂も入り朝食も終え8時半
最後の訪問地 玄武洞までは駅前からバスで行く そのバスは平日の始発が10時45分発なので
宿に10時まで居た

若い頃玄武洞に行ったことがある
その時は確かJR玄武洞駅から対岸の玄武洞まで渡し舟で往復したように思う
近年新橋が出来て常設の船便は無くなったようだ
(調べてみると現在は予約をすれば迎えに来てくれるようである)

円山川の城崎新橋から
駅で30分ほど待つ 玄武洞経由豊岡駅行きだ
このバスも本数が少ない 帰りは2時間ほどして豊岡行があれば良いが 都合良くは 無い
1時間ほどで城崎温泉行がある 引き返すことになるが 頑張って1時間の観光をする
途中 バスが急停車する バスの運転手が「コウノトリがいました」と言う
10名程の乗客が立ち上がり捜すが「あ~あ」「どこどこ」とパニック状態
結局じじいは見つけられなかった そうか近くに豊岡コウノトリセンターも有るんだ
その後も目を凝らして田んぼを注視するも見つからなかった
バスは20分ほどで玄武洞公園前に着く すこし上がったところに入り口があり入園料500円
「玄武洞」公園のパンフでは
『玄武洞は、約160万年前に起こった火山活動で流れ出したマグマが冷え固まる際に規則正しい割れ目を作り出し、
柱状に節理が形成され誕生しました。
玄武洞で採れる岩石は大きさが均一で利用しやすく、
運搬に便利な川が近くにあったことから、
江戸時代には採石場として利用されてきました。
1926年松山基範博士(京都帝国大学)は、玄武洞の玄武岩が
現在と逆向きの磁性を持つことを発見し、
「地磁気が逆転した時代があった」ことを1929年に世界で初めて発表しました。』
そうなんだ 地磁気が逆転するんだ


玄武洞~かつて採石場として人工的に作られた洞窟と堀残された柱殿対比がダイナミックな景観となっています。
大正14年の北丹大地震で大きく崩れましたが、崩れた玄武岩は
地元赤石集落の石垣や城崎温泉を流れる大谿川の護岸などに使われています。


青龍洞~岩石に見られる規則正しい割れ目を節理と言い、それが柱のようになったものが柱状節理です。
玄武洞公園の中でも特に美しい柱状節理を見せてくれるのが青龍洞です。
このような柱状節理は、熱い溶岩が冷えていく過程で収縮してできたもので、溶岩の表面から中心部に向かって伸びていきます。

白虎洞~水平方向に延びた柱状節理の断面を見ることができ、玄武洞の柱状節理と比べると細いことに気づきます。
一般的に、柱状節理はゆっくり冷えたところほど太くなるので、この付近では溶岩が早く冷えたこと、
つまり溶岩の周縁部に近いことが分かります。

南朱雀洞~南朱雀洞脇の岩石を見ると、節理が見られず、表面がごつごつしています。
これは溶岩流の先端に当たる部分です。溶岩の表面が急に冷やされて固まったため
、柱状節理は余り形成されません。それは、内部が熱く、あとから溶けた溶岩が押し出て表面を破壊するため、
塊状の岩石の集まりになる。近くで石をよく見ると、マグマの中に含まれているガスの抜けた穴が見つかります。


(上の説明は公園パンフより)


階段も敷石も全部玄武岩だ
本当にこう言うのって何時間でも見ていられる
時間が無い 次のミュージアムに行く バス停はその前である










蛍石群








本当に柔らかい


石の様に堅い(そりゃ石や ちゅうねん)












わずか1時間程だったが見ごたえがあった
万博もいいが 落ち着いて視れるよね
バスで再び城崎温泉駅に戻り30分程待って豊岡・福知山・園部で乗り換えて京都駅
雨雲は去り 久しぶりの梅雨明けの青空に 夏の日差しが避けられて少しラッキーだったかも
楽しい旅でした
了