百五十段 奥琵琶の夜空と浅井家(あざい)の戦国時代を巡る
2011年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」以来一度訪れてみたかった
浅井家も豪族 小谷山を中心に琵琶湖平野一帯に勢力がある
JR北陸本線河毛駅から2km少しの所に「小谷城戦国歴史資料館」があり そこから小谷城址に上がれる
今回
以前から行きたかった近くの「須賀谷温泉」にも行った
又 隣の峯の山裾に小堀遠州の菩提を弔う「近江孤篷庵(こほうあん)も行った
そして主目的の「星空の観察」は 琵琶湖の北端ではどうかなと NETで捜すと
河毛駅から3つ目の田村駅から6~7分に「県民共済ドーム長浜宿泊研修館」がヒット
隣がスポーツセンター(共済ドーム)で本来は団体の受付だけだが 閑散期の金・土・月などは個人でも
宿泊が出来る 早速5月の新月27日を中心に捜すと5月26日(月)が空いていたので即予約
宿泊費が共済とあって安い
素泊まりで 和室 3750円 洋室 4950円
そして65歳以上は和室 2880円
洋室 3850円
今回 畳部屋だと登山の後は起き上がれないだろうと洋室を選ぶ



窓からは道路1本挟んで琵琶湖に面した公園


駅からも近く 琵琶湖は目の前 殆ど予約で一杯 良く取れたもんだ
問題はその日の天候である それは後ほど
1日目

近江塩津行の快速に乗る
米原で12両から4両に切り離され塩津まで各停
長浜駅から虎姫・河毛と2つ目 長浜駅周辺はビルだらけになっている
がそれ以外は駅員もままならない駅が多い
河毛駅には駅員(?)が一人 駅の掃除や売店の管理やレンタサイクルの受付もしてくれる
レンタルは17時まで 電動で1000円 時間を超えると預かり金800円は没収
もうひとつ制約がある
「須賀谷温泉」の立ち寄り湯は15時までの受付


駅前広場には浅井長政とお市の像
歴史資料館迄は水を張った何枚もの田んぼが広がっている
田植えを終えた所や今まさに苗を植えている最中の機械が点々と有る

伊吹山が雲に隠れる
小谷城戦国歴史資料館までは難なく来た
入館料はレンタサイクルと同時だと50円引きで300円 館内撮影禁止



館内の写真はNETより
小谷の歴史はNET(歴史館HPはよくまとめて頂いているので転写)によると
『小谷城が築かれた小谷山は、標高495mの急峻な山です。
前面には虎御前山・山脇山・丁野山、西に高時川、背後には伊吹山系が控える自然の要害に囲まれた屈指の山城です。
城下には北陸と東海地方を結ぶ北国脇往還、そこから南には、東山道に通じる小谷道が分かれていました。
小谷城跡は、小谷山に深く切り込んだ清水谷(きよみずだに)とその両側の尾根、及び小谷山々頂大嶽(おおづく)にあり、その構造は、本丸を中心とする主郭と居館のあった清水谷、それらを守るように配置された出丸・金吾丸・大嶽城・月所丸・焼尾丸・福寿丸・山崎丸の独立した砦からなります。
浅井氏
浅井氏は、北近江の守護大名京極氏の被官で、小谷城西麓の丁野(ようの)(現長浜市小谷丁野町)を本拠としていました。
大永3年(1523)、浅井亮政らが 京極氏の跡目争いに乗じて国人一揆を起こしたのをきっかけとして、
やがて主導権を 握り北近江を支配するようになります。
小谷城はこの頃築城されたのではないかと考えられます。
天正元年(1573)9月1日、織田信長によって攻め落とされるまで、小谷城は北近江を統治した浅井氏三代の拠城として機能します。
初代亮政が頭角を現し始めた大永3年(1523)頃から数えて、約50年の歴を刻んできたのです。
元亀争乱
元亀元年(1570)に織田信長が浅井の同盟である越前の朝倉氏を攻めたことによって事態は大きく変化します。
この一報を聞くや否や長政は義兄信長から離反し、織田・徳川連合軍を朝倉軍とともに姉川で迎え撃ちます。
浅井・朝倉軍は姉川では敗れ退陣したものの、その後「志賀の陣」で優勢となり一進一退の攻防を繰り返しました。
一度は和睦を結びましたが、天正元年(1573)大嶽を攻め落とされ、ここを守っていた朝倉軍は退却し朝倉義景は越前国大野で自刃します。
信長は小谷城へ総攻撃をかけ、同年8月29日久政自刃(享年49)、9月1日長政も小谷城内赤尾屋敷で自刃しました。
(享年29)こうして小谷城落城、浅井三代は潰えました。
三姉妹
長政とお市の子のうち、三人の娘たちは、戦国から江戸と続く動乱の時代の中で、歴史に大きく名を刻むこととなります。
姉妹の名前は、茶々・初・江です。浅井と織田の血統を受け継いだ彼女らは、
それぞれ豊臣、京極、徳川へと嫁ぎ、波乱の運命をたどっています。
長女茶々
茶々は後に淀殿と呼ばれました。天正元年(1573)に小谷城が落城してから、母妹たちと住まいを転々とします。
母亡き後、三姉妹は秀吉の庇護下に置かれることになりました。妹たちが秀吉の指示のもと他家へ嫁ぐ中、
茶々は秀吉のところに留められて側室となり、時の天下人秀吉の子ども秀頼を生みました。
豊臣家の世継を生んだことにより、絶大な力を持つようになった茶々ですが、
秀吉が亡くなり関ケ原の合戦で石田三成が敗れると、徳川家との争いの矢面に立つこととなります。
難攻不落といわれた大坂城は大坂冬・夏の陣で落城、茶々豊臣秀頼と運命を共にしました。享年47でした。
次女初
初は近江の名門京極家、従兄弟の京極高次と結婚しました。
夫の高次は本能寺の変の後、明智光秀につきますが妹の龍子が秀吉の側室となったために助命され、
その後近江八幡城主、大津城主となります。大津城主のときの関ケ原の合戦では東軍徳川方につき、西軍石田方の軍勢を足止めしました。
このとき初は城内に残り、兵を励まし兵糧運びまで手伝ったと言われています。
夫の死後出家し、常高院と名を改めました。大坂の陣では姉 (豊臣方)と妹 (徳川方)との間に立ち、豊臣家の使者として奔走しています。
落城寸前まで淀殿の説得にあたり、混乱の中でも冷静な判断を失わない気丈な姿を、
淀殿の侍女お菊が『お菊物語』に記しています。晩年は江戸で過ごし、寛永10年(1633)に64歳で亡くなりました。
三女江
天正元年(1573)、小谷城落城の年に生まれました。
動乱の中父母を亡くし、後見人となった秀吉の計らいで、天正12年(1582)に佐治一成(かずなり)と、
文禄元年(1592)に羽柴小吉秀勝と結婚しています。一成とは秀吉の命で離縁させられ、秀勝とは死別しています。
文禄4年(1595)、6歳年下の徳川秀忠と3度目の結婚をし、二代将軍となった夫との間に二男五女をもうけました。
このうち長男の家光は三代将軍に、五女の和子(まさこ)は後水尾天皇のもとへ輿入れし興子(おきこ)(後の明正(めいしょう)天皇)を生み、
将軍家・天皇家に浅井家の血筋を残しました。江戸城で54歳の生涯を閉じた江は、
その死後当代の女性としては最高位の従一位を贈られ、東京芝の増上寺に眠ります。
母お市
三姉妹の実母。織田信長の妹。信長の同盟政策により長政に輿入れする。
小谷城落城後の天正十年(1582)、柴田勝家と再婚。天正十一年、賊ヶ岳で柴田軍が敗れ、勝家と自刃する。
根切のこの時代に三姉妹が生き延びたのも信長の影があったんだ 納得

館の前の「追手道入り口」から山に入る
館の人の話では追手道から➀番所までが一番急勾配で30分は必要とのこと
昨夜の雨で滑り易いので気を付けてくださいと注意喚起


野獣避けの鍵を開けて

いざ出陣!
急勾配でも階段があれば歩き易いが殆どが赤土まる出しのごろごろ
これも防御の一つだろうか
所々の峠からは琵琶湖や伊吹山など景色が楽しめる



竹生島
黄色いのは麦畑(6月収穫期) こんなに麦畑が多いのに吃驚 これって麦のあと米を作るんだろうか

上の写真は平地をサイクリングしている時の農地
見慣れた感覚では秋の稲刈りの様相 季節を錯覚しそう この時期でないと見れないな~

番所跡まで何度も休憩して➀番目に来た
確かにきつい 以後は結構だらだら道が続く



馬もここまで上がって来たんだ




写真の右中ほどの緑の線(姉川の戦い)を挟んでの攻防 その上奥が横山城址

右は赤尾屋敷跡 長政が自害した所とあるので少し遠慮した



この展望台で撮影があったようだ 竹生島が小さく見える


正面が本丸の石垣








この部分を堀切にして右が本丸となっている





⑭山王丸まで来た
ここまでの周辺では 多くの人々が戦いで亡くなった
当時の人々は必死だったんだろうが
時が経つと全てが空しく見える こんな狭い土地の奪い合いで殺し合う
同じことが今も世界中で起こっている 本当に信じられない
合掌
山を降りる 本当にきついのは下りだ スニーカーが何度もひっくり返る
ここは登山靴が必要だ


帰りに出城の金吾丸跡に寄って下った

歴史館に留めている自転車で隣の尾根の麓の「須賀谷温泉」まで行く
途中 「小谷城趾ガイド館浅井三代の里」がある
ガイドの詰所とトイレとモニュメントがある

温泉までの距離は2.5kmほど どうにか15時までには間に合うようだ
国道365号に出 途中尾根筋を左に入る 山裾に1軒の温泉宿


小綺麗な宿
おっと駐輪場に虫が

館内はとても清楚で素晴らしい

源泉かけ流し 少し茶色(ヒドロ炭酸鉄泉)がかった柔らかい湯
軋む足腰には最高の栄養だ

写真はNETより
日帰り客も2~3名 静かにゆったりとした時を過ごす
この湯に武将や三姉妹も入ったと言う
大満足
曇り空ながら雨は無かった が今夜の星空は無理だろう
河毛駅に戻り 長浜の1つ米原寄りの田村駅で降りる
この駅では学生風の人が大勢乗り降りする
駅前に「長浜バイオ大学」があるんだ

バイオサイエンスに関してすごい大学の様だ
その周りにもイオンの研究所があったり

大きな多目的ドームがあったり

過去の世界から突然未来の世界にきたような
湖岸まで行く


高い波の先に長浜の街並みがある 比良の山並みは霞んでいる
晩飯と明日の朝食をコンビニで調達(ビールも追加)
入館には少し早いが 湖岸公園を道路1本挟んだところにある研修館に入る
係の女性に星観察の話をして 晴れていたらの状態を聞く
彼女は星空など気にしたことも無い様で 多分それなりに見えますとの返事
ここは此の国道さえなければ静かで暗くて 野獣も出なくて 湖の上に満天の星が見れそうな
いやいや遠くの長浜の町の灯りが邪魔するかも
今後の検討の対象にしておこう
一杯飲んで一杯喰って もう寝るだけ 大風呂も有るらしいがもう充分入って来たのでパス
足が引きつるので 明日は予定の時間より1j時間遅い列車に乗ります
お休み
2日目
田村駅8時40分の近江塩津行 河毛の1つ手前「虎姫駅」で降りる
虎姫の名前の由来はNETによると
『昔、このあたりに「虎御前」というとても美しいお姫様が住んでいたんだ。そのお姫様が旅の帰りに道に迷ってしまい、
ある青年に助けてもらった。それがきっかけで二人は結婚し、子どもをもうけるんだ。
ところが、その子どもは全身がうろこで覆われ、蛇のような姿をしていたんだって。
それ以来、虎御前は人目をさけて暮らすようになるんだけど、ある日水面に映った自分の姿を見て驚いた。
虎御前自身も、全身がうろこに覆われていたんだ。つまり、子どもが蛇のような姿をしていたのは、自分自身が蛇だったからなんだ。
結局、虎御前は身を投げて命を絶ってしまうんだけど、子どもたちは人間の姿になり、無事に成長した、というお話なんだ。』
だそうだ
今は阪神タイガースの聖地となっている

全国で唯一「虎」という字がはいる駅名とかで
タイガースファンの有志が「虎神殿」を作り優勝祈願をするとか 大笑い

駅でレンタサイクルを借りる
電動は無く 500円(16時30分が時限)

2日目は結論を言うと言い訳がましく 太腿の筋肉の作動がきつい
御前山も途中までの登りで引き返す(野獣の出没も有り) 時遊館(この地の案内と土産物)は封鎖
そして近江孤篷庵(こほうあん)にたどり着き
古墳群2つを捜すもスマホの位置情報が「右じゃ左じゃ」とわめく
姉川温泉で一服つくも姉川古戦場までの余力無し という始末
では見ていこう

NETより
『虎御前山は、日本の歴史上で2度の大きな戦場として登場します。 ひとつは室町時代の初め、将軍の足利尊氏公と弟の足利直義公が戦った八相山(はっそうざん)の合戦。
もうひとつは織田信長公が小谷山の浅井長政公を攻めたときで、尾根上には信長をはじめ木下秀吉公、柴田勝家公、堀秀政公、滝川一益公、丹羽長秀公などの陣地跡がずらりと並んでいます。
信長公が小谷城の長政公を攻めた折、最前線として虎御前城を築き、勝家公の陣が置かれました。 信長は、3回にわたって砦(とりで)を築かせていますが、砦は小谷城落城の後、すぐに壊されています。
しかし現在も伝信長公陣跡・秀政公陣跡・秀吉公陣跡は土塁や堀跡が良好に残っています。』とある
この辺りは日本の西と東の境界で水陸交通の要でもあり
嘗ての壬申の乱でも戦場となっていた 戦国時代の将に最大の陣取り合戦の中心である
少し南に行けば安土が 少し北に行けば関ケ原

昨日は絵地図の一番上 小谷山から虎御前山をみていた
あの細い谷底を挟んで対峙していたんだ
先端まで往復2時間半 ちょっと厳しいな

閉鎖した時遊館

神社までの階段を勢いよく上がる野獣 何だろう

猿でもない 狸かな

さらに上に行くと神社の藪から狐が飛び出して横切る
人里が近いせいか多くの野獣が闊歩している
当然猪や熊も 桑原桑原




伝蜂屋頼隆陣地跡
ああ~もう駄目だ先を考えると足が進まない 引き返す
近江孤篷庵までほぼ直線で7kmあまり
ところが周りは田んぼと畑の畦道ばかり

お百姓さんがいた!
「すみません近江孤篷庵に行きたいのですがどの道を行けば」と問う
70才前後の背の高い男性 田にはその息子さんらしい人が田植機で作業をしている
手持ちの地図を取り出し見せるも ここから左の集落まで迂回してそこから国道365に出て左に戻って
などと話していると息子さんも機械から降りてきて考えてくれる
これって 以前 宮古島のさとうきび畑の真ん中でホテルの方向がわからかくなって
父子の農夫さんにあれこれ考えてもらった時を思いだした
因みに帰りもこの畦を通ると父子がまだ作業中だった
来た時 苗は1筋程だったが帰る頃は最後の1筋を残すまでになっていた
「ありがとうございました なんとか行けました 今年は儲けてくださいね」というと
お父さんは真っ白な歯を出して嬉しそうに「頑張ります」と言って見送ってくれた
7kmの道もアップダウンがあり電付きでないのでアップの時は押して歩く
そのかわりダウンの時は猛スピードで坂を下る 汗が気持ちいい
これが自転車の醍醐味

途中 田んぼの真ん中にりっぱな伽藍


これを支える農家もりっぱなんだ

やれやれ

看板に偽りなし 本当に東西文化の拠点だ
1度では回り切れないほど濃厚
この近くには小室城址や五先賢の館(相応和尚・海北友松・片桐且元・小堀遠州・小野湖山)の展示館がある
孤篷庵はその内の1人小堀遠州を慕った菩提の庵である


人は誰もいない
玄関に小さな賽銭箱とパンフレットが置かれている
部屋に上がられる方は300円を箱にお納め下さい パンフはご自由にお持ちくださいと書かれている
秋と違って閑散期はこんなもんだろう



どんな紅葉なんだろう でも人の頭越しではな~
「近江孤篷庵」NETによると
『近江孤篷庵は小堀遠州の菩提寺です。小堀家は近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)を本拠とする土豪でしたが、
戦国時代には浅井家に仕え、浅井家が没落すると新たに領主となった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の弟である羽柴秀長(後の豊臣秀長)
の家臣となりました。小堀正次は秀長の家老まで上り詰めた関係で、その子供である小堀遠州(政一)も小姓として仕えました。
秀長は山上宗二や、千利休といった当時一流と言われる文化人と関係が深かったことから
遠州(政一)も彼らと接する機会が多く大きな影響を受けたと思われます。
秀長とその養子である秀保が相次いで亡くなると遠州(政一)は豊臣秀吉の直参の家臣となり、
伏見城下では古田織部に師事した事でさらなる文化的な才能を磨きました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍として行動した事から小堀家は備中松山藩(岡山県高梁市)1万2千5百石に加増され
、慶長9年(1604)に父親の死に伴い遠州(政一)が2代藩主に就任しています。
その後は多くの城郭や寺院などの普請や庭園の作庭などの仕事に携わり名声を高め、
茶人としても日本三大茶人の一人として評価を高めました。元和5年(1619)に旧領に近い近江小室藩の藩主となり、
近江国奉行や伏見奉行などの要職を歴任しました、正保4年(1647)に死去。享年69歳。』
京都大徳寺に遠州作庭 孤篷庵(非公開)があるので ここは近江と名付けているんだ
庵を後にして古墳を巡ろうとするも道を間違えて スマホの位置情報でナビをするも
「右や左」と言われ右往左往 左に行ったら田んぼでんがな と突っ込みたくなる
これはもう無理だと諦め 温泉に向かう(温泉は大きな看板があるからすぐに判る)

SNSでも評判の良い「あねがわ温泉」
どこか高級宿の感

日帰り温泉にしては立派な施設 980円とはこれ如何に

とりあえずレストルームで水分補給

平日の昼下がりとあってかそれほど人もいない
内湯は源泉ナトリウム温泉 28℃の加熱 肌がつるつる温泉
もう一つは38℃の炭酸泉 気泡まみれ温泉
露天は3つ 良い湯だね

炭酸水温泉は38℃ゆらりゆらり 前の叔父さんも寝ている
この先の姉川古戦場跡ももう無理 心と足が付いてこない 帰ろう
駅に向かう途中 浅井三姉妹が匿れたとう実宰院の看板
寄ってみる



星の観察が主目的だったが 結局温泉巡りのようになってしまった
しか しこの地域の人達の激しい生死を掛けた所業に圧倒され
夢の跡をのんびり車上(自転車)から眺めながらの旅
楽しかったです(足は震えていますが)
了