百四十五段 閑谷学校・備前伊部・備前長船の旅

2024年11月20~21日

やっと秋風を感じる気候になった 異常気象の紅葉も右往左往しているんだろう
兵庫県との県境 岡山県備前市と瀬戸内市(2004年 牛窓町・邑久町・長船町が合併)を中心に周ってみた


1日目

特別史跡旧閑谷学校(岡山県備前市閑谷)は寛永10年(1670年)岡山藩主池田光政が庶民の為の学校を開いた
JR山陽本線吉永駅からコミュニテーバスが出ている 平日は1時間に1本 土・日は時間帯では20分おきに出ている

駅前には既に12名乗りのマイクロバスは満席
9名ほどは乗れなかった コミュニティバスの他の地域を周るバスがもうすぐ来るという
もし他の客が乗っていたら積み残しとなる そんな場合はタクシーが救援するようだ

じじいたちは運転補助席も使ってぎりぎり乗れた
乗っている時間は10分足らずだが結構な山道 一律200円

閑静な谷沿いの一角に大きな駐車場と多くの人々が訪れていた
観光バスも5台ほど停まっていた




瓦は全て備前焼である ちょっとみると中国風に見える



講堂

床紅葉

飲室

資料館(中学校や高校としても使われた)

館内撮影禁止
7つの教室に「池田光政と津田永忠」「閑谷学校の教育」「聖廟と釈菜」「閑谷学校の文化財」「岡山藩校の教育」、
「学制頒布後の閑谷学校」などの資料の展示

NETより
平日にもかかわらず人と車で混雑
バス停の時間表を見ると予定のバスが無い どうやら土・日用と間違えたようだ
12時台は1本も無い 13時30分迄1時間以上ある
学校の右側の山手500mに「津田永忠宅跡」の看板がある 行ってみる

こんな一等地に住んでいたんだ


谷の一番奥は溜池になっていた
バス停に戻るも まだ20分ほどある
バス停には1時間半前にいた老夫婦がまだ座っていた 彼らはもう2時間は待っている

来るときに乗ったJR山陽線吉永行はもっと本数が多い
今待っているのはJR赤穂線の伊里(いり)行のバスなので本数も少ない
吉永から相生まで引き返し赤穂線に乗り換える方法もあるが非常なロスだ


閑谷学校から伊里まで約7kmも一律200円だった

JR伊里駅

赤穂線岡山行で備前市伊部(いんべ)まで行く
日本六古窯(瀬戸・越前・常滑・信楽・丹波立杭・伊部)のひとつである
伊部焼と備前焼の違いがよくわからない NETで調べると

【備前焼】現在の備前焼の事です。明治時代以降の作品を備前焼と呼びます。
【古備前焼】江戸時代以前の備前焼を「古」を付けて古備前と呼びます。
【伊部焼】備前焼のことです。備前市伊部地域で作られているためそう呼ばれています。
【古伊部焼】:江戸時代の「伊部手」の作風の品を特にそう呼びます。伊部手と呼んだりもします。

今一不明 さらに

備前国(岡山県)の炻器。
備前市伊部で産し、尹部焼・印部焼とも記し、一般には備前焼と呼びます。
【沿革】備前の地で土器を製出しだのは古いですが、備前焼としての起こりは鎌倉時代で、
当初の害窯は熊山山腹にありましたが、のち今の伊部付近で焼くようになりました。
始まりは応永年間(1394-1428)とされ、当時伊部には三窯あって、櫃原山下にあるものを南窯と呼び、
不老山下のものを北窯といい、育王山畔のものを西窯と称し、水甕・種壺・種浸壺などの農具を製しました。
窯は大窯でいずれも長さ三五メートル程、横幅四・五メートル程あり、
一窯に器物三万四、五千個を入れ、薪材五四、五トンを用いて三十余日間間断なく焼成した’といわれます。
その後花瓶・酒場などをつくり、天正年間(1573-92)になってこの業が大いに進み、初めて茶壺をつくりまた茶碗や置物なども製出しました。
後世これ以前を古備前と称しました。

その後特に明和・安永(1764-81)頃から天明・寛政(1781-1801)の間は最も隆盛を極め、
備前の特色とする火襷(紅条の斑紋が束縛するように器物の表面に現れたのをいい、
質は白土で全体が無釉である)の類から、精巧で青色を帯びたいわゆる青伊部または青備前と称する良品を製出しましたが、
1832年(天保三)に大窯を廃止して長さ約一六メートル、横幅約四メートルの小窯に改築してから品質が急に衰えたといわれます。
昔の伊部焼は大饗・木村・森・寺見・金重・頓宮の六姓で業を世襲し、四十六家に制限していました
その後明治維新となりますます衰頑しましたが、
1878年(明治一一)に同地に伊部陶器株式会社ができてもっぱら土管を製造し、
1896年(同二九)には備前陶器株式会社が創設されて盛んに耐火煉瓦や装飾用陶磁器類を製出しましたが、
同地固有のいわゆる備前焼は衰微して振わなくなりました。
しかし伊部の原料は非常に微細な分子から成り、含有する酸化鉄分が多くて耐火度が低いとはいえ
焼き上げたものは質が非常に緻密堅硬となり、他の地方では容易に模倣できない逸品をつくり得るため、
貞観(859-77)・延喜(901I二三)頃から本陶器を践祚大嘗祭の神器に当ててきたといいます。
昭和三 1928年11月に行われた御大礼の御調度品として伊部焼瓶子調製方を同町木村兵次が命じられた。
「製品」品質は炻器に属し、品種は茶壺・茶碗・酒堰・摺鉢から偶像その他動物類の置物などを得意として
、巨大なものが少なくありませんが、現在の技術は昔のものには及ばないようです。
古風の備前焼は無釉の焼締めから発達して雅趣ある自然の景色などを特色としましたが、
のち釉薬などを用い始めてかえって無趣味に陥りました。
今に伝存する備前焼は古くても茶用の水指に見立てられた種壺・種浸壺などであります。
種壺の口はたいてい拳の入る広さで、肩に二つまたは四つの耳があります。
この耳が飾りだけで紐の通らないようなものは後世の作であります。
種浸壺は種壺よりも大きく胴に膨らみがあって肩には耳はないようです。
耳のあるものは後世特に茶壺としてつくらせたものであります。

のち天正(1573-92)頃から茶器を焼出し南蛮物を模しましたが、それほど剛堅の質ではなく畳付にも南蛮ほどの落ち着きはないようです。
当時の備前焼は豊臣秀吉の保護を受けて発達し、名工も多くいて後世これを古備前と称しました。
古備前の特色としては、土は紫土でそれに火襷と松葉焦げと榎肌の三種が現れています。
火襷は元来藁の焼けた痕で不規則なおもしろ味がありますが、後世の人工的なものは模様が規則的でおおむね白土であります。
松葉焦げも松葉の焦げた自然の痕の乱れ模様でありますが、後世の人工的なものは雅趣に乏しいです。
古備前の榎肌はまれなもので、火焔が間接に当たった所が蒼黄色に変化したものであります。
伊部手とは塗り土をしたのが釉状に光沢を出したもので、室町末期から始まりますが、
のちには紫土に胡麻釉が掛かって榎肌のような色合いを呈したものを特に伊部焼といい、赤土で薄釉の掛かったもの、 
あるいは飴釉・蒼釉のものなどを備前焼
と呼び分けるようになりました。
寛永年間(1624-44)の池田侯の入国以来、細工御用達の制が設けられ、それ以後人物鳥獣などの置物細工が流行しました。
天正年代の窯印とその工人らを詠んだ歌に「井は古し、松葉正玄、丁新兵衛、丸は宗伯、十は茂右衛門」などがあります。
「原料」昔から二種あります。
一つは伊部土で、帯黄灰色を呈し細砂および豆粒大の石粒を混ぜたものです。
他は磯ノ上の粘土で、伊部から八キロ余り離れた邑久郡磯ノ上村(長船町磯上)の畑地から採掘し、
鼠色の粗砂を少ししか含まないものであります。
製法には特殊な方法はなく、一般製造法と異ならないようです。』(鶴田純久)

とある 理解するには大夫時間がかかるようで


現在 町の押しは備前焼と山本由伸の様である
駅の上は備前焼のミュージアムと売り場になっていた 撮影禁止だった 
やはり予想通り高額である数千点の作品 コーヒカップは5000円 そのお皿が2000円 数百万の壺もある
この建物の横に大きなビルが建設中でそれは備前焼美術館という
結構 インバウンドも多い

今からこの地図を元に歩く
終点は今夜の宿ビジネスホテル「トービーホテル」
まず 駅の陸橋から南側に「伊部南大窯跡」が見えている から歩く

徒歩5分程の岡の中腹に土器の破片が捨てられて山積みになっている

『榧原山麓にある備前焼を焼いた室町時代から江戸時代の共同窯で、3基の窯(東側窯跡、中央窯跡、西側窯跡)
と巨大な物原からなっています。東側窯跡は全長53.8m、全幅3~5m、傾斜角度17度の半地下式の登り窯で
単房の窯としては国内で最大規模です。』の説明


すごい!古墳の土器のようだ
一つ持って帰ろうとしたら「貴重な文化財です。持って帰ると罪になります」の看板
思わず投げた

駅から山手側に行く




天津神社(あまつ)までの通りには多くの陶器屋や窯元が並んでいる
入るには相当勇気が要る

創建は応永18年(1411年)
瓦や狛犬・壁も備前焼 この周辺の窯元たちの守り神


門の横の壁も焼き物

寺の中腹から少し登って国指定遺跡「伊部北大窯跡」と「忌部神社」に行く

ここはもう土器の欠片と窪地のみ

NETでは
『陶祖、天太玉命(あめのふとたまのみこと)を祀っています
備前焼の繁栄、火の災い除け、作陶の上達等のご利益があると言われています。』
伊部の元となった忌部氏の神社だったんだろう

神社からは町が一望
下る途中「天保窯」に寄る

読めない
NETでは
『天保3年(1823年)頃に築窯された。築窯当初は5室であったが改修、補修を繰り返して最終的には7室にまでなり、
昭和15年(1940)頃まで使用された。築窯された融通窯のうち残っているのはこの窯のみである。
昭和46年(1971)10月6日に備前市の文化財に指定された。



最後の「伊部西大窯跡」に向かう

街道筋は更に多くの陶器関係の店や窯元が並ぶ
大きなファインセラミック工場もある

無料休憩所で一休み

大夫暗くなってきた
新幹線の高架下を潜っところから道が判らない
自転車で帰宅の2人の中学生や生協の配達の人に地図を見せて
「西大窯跡」を訊ねるも知っている人はいない 何度も同じ所を行ったり来たり 別の道を行くも判らず
その内に 高い白い建物が見えた
これは「トービーホテル」だ
もう足の疲れや日光の釣瓶落としに負け チェックインした
フロントの叔父さんに「西窯跡」の場所を聞くと「あそこは行かないほうが良いですよ まともな道では
無いし行っても碑が建っているだけですよ」という それを信じて今回は断念
さっそくシャワーを浴び 来るときに買ってきたコンビニ弁当をレンジで温め ホテルフロントでビールを買い
足の筋肉の痙攣に涙しつつ ベッドに入る


2日目

頼んでおいた朝食(和定食)を食べ
伊部駅9時46分の列車に乗る
このホテルは駅から徒歩15分の立地なので設備も良いし結構奇麗のに安い
しかし他にホテルは無い(駅近に1軒旅館が有ったが今回は敬遠)
 伊部の街道沿いで多くのインバウンドに出会ったが何処に宿泊しているのだろう

 
川道を下って駅に向かう

伊部駅前と西国街道

伊部から2駅目が長船である
9月に橿原考古会で長船の遺跡と刀剣美術館を行くことになっていたが
1本何億円もする刀剣の特別展(国宝「太刀無名一文字【山鳥毛】)だったので 2週間の期間中は1時間40名の入場制限があり
 各自で申し込んで下さいという通知が来た すぐにNETを見たら全ての日と時間帯が満員だった
何日もキャンセルを待つが入れなかった その時の考古会参加は止めた
今回はそのコースを個人で行く

駅から約7kmと博物館からJR香登駅まで徒歩25分である
頑張るぞ~

長船駅(瀬戸内市)
橿原考古会 伊藤先生
『備前国は古刀期(平安時代から安土・桃山時代まで)を通じて全国一の刀剣産地でした。
中でも備前を南北に流れる吉井川の下流域は、特に中心として栄えました。この地域で制作された刀は
備前刀と呼ばれています。備前が拠点となった理由としては、中国山地の良質な砂鉄が供給された
ことや、山陽道および瀬戸内海が近く、交通の要衝であったことなどが挙げられます。』
『吉井川流域では良質な砂鉄が採れました。花崗岩の中には1~3%程度の砂鉄が含まれ
、特に中国地方ではチタンを余り含まない良質な磁鉄鉱を含む花崗岩が多く、古くから大規模な
タタラ製鉄が営まれてきました。良質な玉鋼が水運によって運ばれ、刀剣生産を支えました。
現在瀬戸内海と岡山市をつなぐ備前大橋に立つと、かつて刀剣が栄えた吉岡・福岡・長船と言った地域や
刀剣制作を支えた赤松の群生林、原料を運び込み製品となった刀剣を運び出した水運・吉井川を一望できます』


教意山妙興寺
伊藤先生
『日蓮宗の寺院で、応年10年(1403年)に播磨の国主・赤松則興の追善供養の為に、子の阿闍梨日伝
によって創建され戦国時代には十の坊と一院がありました。境内には後に黒田家の墓所や宇喜多興家の
墓所が有ります。九州にある福岡は、黒田官兵衛の子・黒田長政が博多の西に城を築き、先祖の
故地・備前福岡にちなんで福岡城と名付けたのがはじまりとされています。』




福岡の市跡
伊藤先生
『鎌倉時代、福岡庄で開かれていた定期市の一つであると推測されています。
国宝「一遍聖絵」第4巻には、踊念仏で有名な時宗の開祖一遍(1239~1289)が、弘安元年(1278)に福岡の市
で武士に説法する様子が描かれています。』

近所の叔父さんに聞くと「今度の火曜日にここで市が開かれるんじゃ」と言う

近所の民家の壁に市の様子の絵が書かれていた
中央は鍛冶作業


東原邸 棟梁の家


村の消防署


吉井川 吉備大橋の上から

田んぼの道を迷いながら何度も行ったり来た 何とか慈眼院まで来た


慈眼院
伊藤先生
『奈良時代、天平勝宝年間の寺院です。境内に残る遺構は新刀期以降ですが、それより前から長船派刀工の
菩提所だったとされます。門には「備前長船刀匠菩提寺」とあります。



「伝 西行法師腰掛石」
「長船に かぢ(鍛冶)する音の聞ゆるは いかなる人の きた(鍛)ふなるらん」 
長船吉兵衛氏の末孫に当たる入江啓太郎氏が平成21年(2009建立))

博物館の前に靭負神社(ゆきえ)に行く


伊藤先生
「長船の総鎮守です。創建不肖ですが伝説では橘右大臣光秋が眼病治癒祈願したところ全治したため
お礼に社殿を建てたとされます。創建は平安時代と推測されます。』

博物館に戻ってきたが様子がおかしい


なんと11月18日から11月29日まで臨時休館
2時間近くかけて歩いてきたのに 信じられない
館の入り口に瀬戸内市のコミュニテーバスが停まっていた
運転手に「何ででしょうか」と聞くと「俺も今来て初めて知った」という
バスは13時25分に長船駅まで行くと言う
まだ1時間少々ある
本来 博物館の見学を終えたら長船の一つ赤穂よりのJR香登まで歩こうと思っていたが
このバスで引き返そう その間周辺をうろつく
館のすぐ前の小藪に「伝 名工兼光屋敷跡」がある


空き地の横の小高い場所は「長船」名の墓石が多数ある


館の傍に

小綺麗な研氏の店がある お気軽にお入りくださいの文字
中には若い男性と若い女性と背の高い若い白人男性が居た
刀剣が展示され 販売もされていた 小刀などは5万円位 たかいもので60万円位

話を聞いていると白人男性は映画か何かのドキュメントを撮りたいので撮影したいと交渉していた
若い女性は通訳だ
若い男性は私は息子でまだ修行中だから父親に相談しますといって携帯で電話をしていた

携帯中の息子さんにお礼をして出て来た
館の前では別の若い白人男女が「休館中」の張り紙を見て舌打ちをしている
バスがもうすぐ出る 訳の分からん英語で声を掛けた
2人は「ノーノ― サンキュウ」と言って会釈する
運転手があんた英語しゃべるのかというので
「thise bus going to OSAFUNE station ok」といっただけですよと大笑い
「さっき 館の人がいたので休館の理由を聞いたら 展示物の入替えで職人が作業をしていますだって
NETにも書いてなかったのに」
「この前の特別展の時はすごかったよ」
「そうなんですよ その時は入場制限があり 来れなかったんで 今日はと思ったのに」
などとワイワイ話しながら駅まで送ってもらった 料金は100円だった

駅で赤穂行の列車を待つ間(約1時間)コンビニでおにぎりを買って駅舎で昼食

最後は少し残念だったが 一応 刀剣も見れたし 楽しい旅でした